特攻の思想
. . .    第 十 章    米内一流の政治=m#「米内一流の政治=vはゴシック体]  鈴木貫太郎内閣が成立したのが昭和二十年四月七日で、大西中将が小沢治三郎中将の後を襲い、軍令部次長に親補されたのが四月十九日である。  総長には連合艦隊司令長官だった豊田副武、豊田の後任は小沢治三郎がすわった。  矢次一夫の回想によれば、大西を台湾から呼び戻したのは岡田啓介大将だというが、これには米内海相の考えも充分に加わっているようである。  鈴木内閣が発足した当時、海軍大臣は米内光政、次官は井上成美、軍令部総長は及川古志郎、次長は小沢という顔触れであった。  次官の井上、次長の小沢。ともに米内の終戦思想の近辺にある人物である。少なくとも、大西のように徹底抗戦≠叫び続けるような立場にはいない。  太平洋戦争がはじまったとき、井上は第四航空艦隊司令長官としてマリアナ群島の付近にあった。「真珠湾奇襲成功」の報が入って、幕僚たちが乾杯のビールをぬき、井上に「おめでとうございます」とコップをさし出すと、彼は「ばかもの!」とひとことだけいって、幕僚を睨みかえしたという。山本五十六大将と同様に、井上は日米開戦≠フ前途を憂えていたわけである。  小沢中将の位置は、高木惣吉の「私観太平洋戦争」に読みとることができる。 「頼りにした井上次官は軍事参議官になり、小沢軍令部次長も海軍総隊長官に転出されて、行詰ったこの局面を打開する対策について、心から胸襟を開いて相談する人を近くにもたなかった。私は小沢中将を訪ねて作戦上の見地から、何とか有力な和平の糸口を探りだせないものかと、日吉の司令部を訪ねたところ、長官はあいにく九州基地視察のため出張不在、落胆して重い足どりで焼跡の海軍省の照りかえす灰燼を踏んで、大臣室から当てもなく、目黒に引返そうと歩いていた」  このような「和平派」の井上と小沢を退け、それに代って大西瀧治郎という「抗戦派」を登場させたのは、米内一流の政治≠ナある。いや、米内光政に限ったことではない。近衛内閣が「陸軍を抑える」ために東条英機中将を陸相に起用し、鈴木内閣も同じ理由で阿南惟幾を陸相に迎えたことを考えると、これは日本の政治における一方程式≠ニいうことができる。  簡単明瞭なことは、米内は戦争を継続するために大西を台湾から呼んだのではなく、和平工作を進めるために呼びかえしたのである。このことは、戦後「東京裁判」の法廷で、豊田副武が「大西の起用は海軍部内の主戦派の不満を和《やわ》らげるためだ」と証言してもいるのである。  たしかに、大西の帰任によって、軍令部内の「主戦派」は一応満足した。「大西さんならやってくれるだろう」と「玉砕」とか「徹底抗戦」という心情を大西に託するようになった。  米内は「緩衝装置」としての大西を見出すことに成功した。それが「政治」というものであろう。この「緩衝装置」は、徹底抗戦だの本土玉砕だのと、勇ましいことをいってくれればくれるほど、米内にとっては好ましいのである。    眼下に荒々しい爆撃の跡[#「眼下に荒々しい爆撃の跡」はゴシック体]  しかし、大西は自分自身が「緩衝装置」であることに気がつかなかったであろうか。多くの文献や関係者の談話の中には、彼の自覚を匂わせるものは、なにひとつ伝わっていない。私自身の感想からいえば、あれほど西郷隆盛に私淑した男である。「西郷さんが城山に籠ったような気持」くらいのことはいっているだろうと思ったが、ついにそうした意味の言葉を発見することはできなかった。  それなら、大西が絵に描いたような勇将≠烽オくは暴将≠ナ、真正直に「本土抗戦」を主張してやまなかったか、というと、これまた軍令部次長という位置から見て、全面的に肯定することはできない。もちろん、大西が極めつきの暴将≠ナ、米内からコケ扱いされているとも知らず、眼を剥き、口角泡を飛ばして、終戦期の東京で奔走した方が、史談としては興味深くなるであろう。しかし、人間をひとつの類型として語ることは、時代を語ったことにはならない。歴史とか時代とかは、類型ではなく典型で語られるべきである。  軍令部の作戦課員であった土肥一夫中佐は「海軍がもはや、これまで≠ニ思ったのはサイパン失陥のときだった」と語っている。このとき、土肥の同僚だった源田実中佐は「海軍はありったけの航空兵力をかき集め、全機をサイパン奪回に投入すべきだ」と、声を大にしていたという。そのような判断が成り立つのは軍令部が情報の集中機関であったからだ。大西はそこの次長になっている。果して、日本の陸海軍にどれほどの戦力≠ェ残されているか、それがどのくらい続くのか、一目瞭然であったはずだ。  大西中将は、軍令部に出仕するため台湾を離れたあと、いったん上海に飛び、上海から大村に進入するところを空襲で妨げられ、米子飛行場に着陸、皆生《かいけ》温泉に一泊したあと、米子から厚木まで飛んでいる。このとき、乗用機は、アメリカ空軍の艦載機と遭遇するのを避けて裏日本をかすめて飛んだ。それを知った大西は、操縦士に「名古屋上空を飛んでくれ」と指令した。「危険であります」と機長がいうと、「かまわぬ。名古屋上空から三菱重工と日本軽金属を見るのだ」と、押しかぶせるようにいう。  眼下に、爆撃の跡を荒々しく見せる風景がひろがった。大西は窓に顔をつけて「ほう」とか「うむ」とかいいながら、工場の被災程度を見つめていた。副官の門司大尉は、大西の表情にさかんな計算が走っているのを見てとった。    常軌を逸した頭脳[#「常軌を逸した頭脳」はゴシック体]  彼は、東京に着任するとそうそうに児玉誉士夫を呼びつけて「銅をなんとかしろ」といっている。「航空魚雷の精度が落ちているんや。電気回路が生命なんやが、銅が不足しておるのでアルミニウムで間にあわせている。それが原因やね」 「銅ですか、銅なんかお安いご用です」  児玉が答えると、大西は嬉しそうな顔をして「たのむよ」といった。 「なにしろ、若いものが一人一人生命をかけている攻撃に部分品が悪いとあっちゃ、なんとも申しわけないからねぇ」  しかし、考えてみると、軍令部次長が民間人に銅の手当を発注など、まったくもって、おかしな話である。銅の問題は、軍需省航空兵器総局の管轄で、軍令部とは関係がない。しかし、児玉によると「終戦間際まで、資材をめぐる陸海軍の対立は続き、そのうえ、海軍部内にも艦船主義と航空主義が対立していたので、銅を貰いにいっても必要量の十六分の一しか割り当てられなかった」という。  大西にもそれくらいのことはわかっていたろう。わかっていたからこそ、児玉機関を動かそうとしたわけである。 「だが、銅はどこにあるのかね」 「閣下の足元にあるじゃありませんか。被災地の電線ですよ。焼土に埋っている。これは純度九九%の電気銅です。人手をあつめて、こいつを掘ればいい」  児玉は、大西中将の妻の父が順天中学の校長であったことを奇貨とし、同校の中学生を動員してもらって、焼跡から電線を集める作業をはじめた。また、焼け残った電柱に「銅をご持参の方には公定価格の三倍で買い受けます」という貼り紙を貼りめぐらした。その結果、一カ月で数千トンの電気銅を手に入れることができたという。  大西が政治の機密を知る立場にあったことは、軍令部次長という位置を考えれば、当然のことである。そのうえ彼は航空兵器にかけては専門的知識をもっている。電気銅の不足という細かいことまで知っている。  米内海相の大西起用≠政治というなら、大西が戦力不足を承知のうえで主戦論≠フ代表として軍令部にあったことは、これまた大西の政治≠ニいってもよいであろう。  要するに、戦争終結の過程をどうとるかの相違である。  米内は鈴木内閣の列内≠ノ入っている。主として外交手段によって戦争終結を図ろうとしている。大西は主戦論者≠ニして、内閣の思想からは列外≠ノある。本土決戦を挑み、アメリカ軍に大出血を強要して、その流血の上に戦争終結の機をつかもうと考えている。  特攻を繰り出した思想が「敵空母の甲板を叩く」から「若者に死地を与える」にかわり、さらに「勝たないまでも負けない」に発展したことはまえにのべた。敗戦の様相が明らかになり、ポツダム宣言受諾へのテンポが早まるにつれ、大西は「日本国民が、なお二千万人ほど戦死するほどの一戦を試みよう」という言葉を口にしている。いわば、日本列島そのものを特攻≠ノしようというわけだ。このような発言に対して、和平派はもちろん、軍部内でも「常軌を逸した変態的頭脳」という評価が立っている。無理からぬことである。  しかし、大西は正気であった。正気で狂気≠いい続けていた。なぜなら、和平派が腐心したのは「国体の護持」であったが、大西の思想には「国家と民族」があったからだと思う。  これは、大西が天皇を蔑《ないがし》ろにしたということではない。が、彼にあっては、「国体」よりも「国家」の方が明瞭な概念になっていたと思われる。このように推論するのは、大西は特別攻撃隊を繰り出すことによって、彼自身の中に「国家」の概念を鮮明にしたと考えられるからだ。彼にとっての「国家」は、「零戦」や「月光」に乗って発進していった若いパイロットたちの、血と死によって支えられている。「国家」は法律上の、あるいは政治哲学上の概念ではなく、特別攻撃隊という具体的事実を触媒剤として成立する、具体的な概念なのである。    「軍人の責任であります」[#「「軍人の責任であります」」はゴシック体]  大西の帰京は、しばらくの間、秘匿《ひとく》されていたようである。  四月二十三日の朝、児玉誉士夫が大西夫人をたずねた。夫人は空襲で家を焼かれ、焼跡の防空壕に住んでいた。 「奥さん、軍服はないかね」  児玉がそれとなく聞くふうなので、夫人は「あら、大西が帰ってきているんですか?」と訊ねかえしている。児玉は「うん、いや」と曖昧な答え方をし、大西の帰京には一言も触れなかった。彼が大西の軍服を探しにきたのは、海軍軍令部次長として参内するために必要だったからである。  その後、大西が防空壕に夫人を訪ねたのは、帰京後一週間たってからである。  焼跡に立った大西を見て、近所の人たちが集ってくると、彼は夫人に「おい、氷砂糖を届けてくれた人がいるはずだ。それをいま出しなさい」といった。夫人が壕内に戻って氷砂糖の袋を持ってくると、大西のまわりに人垣が出来ていて、「ご無事でなによりでした」と泣いている人が多かった。 「さあ、皆さん。いまから氷砂糖を配給しますが、どう頒《わ》けても不公平になりますから、皆さんの掌でひと握りずつつかんで下さい」  大西は、そういうと、紙の上に氷砂糖の山をつかんで、人々の前をまわった。大きい掌や小さい掌が、さまざまな表情で氷砂糖の半透明な山に伸び、ひと握りずつ持ち去った。  幼児を背負っている主婦がいた。彼女がひとつかみすると、大西が「赤ちゃんも、どうぞ」といった。 「赤ちゃんの掌では一つか二つよ。不公平だわ。お母さんの掌にしてあげましょうよ」  妻の淑恵がいうと、大西は「いや、いけません」と首を振った。 「ひと握りずつだから公平なんです。掌の大小をいったらキリがありません」  最後に、大西が掌をぐいとひろげて、氷砂糖の山をつかんだ。彼は砂糖をつかんだままの掌で幼児の前にくると、「ハイ、これはおじさんの贈りものです」と、小さな顔の前に突き出した。人垣から拍手がおこった。  大西は、円陣の中央に立つと、ぐるりと人垣を見まわして、いった。 「私は軍人として支那大陸ほか外地を攻撃し、爆弾をおとして、建物を焼いてきました。ですから、敵の空襲をうけて、ごらんのとおり、家を焼かれるのは当然であります。しかし、みなさんはなにもしないのに、永年住み馴れた家を焼かれておしまいになった。これは、私ども軍人の責任であります。本当に申しわけありません」  深々と頭を下げた。彼が、ここで「軍人」と「民衆」をわけていることは、きわめて意味深い。「軍人」という意識は敗戦への過程でさらに強化され、「われわれは、まだ、力を出し切っていない」という考えに発展する。これが「本土徹底抗戦論」の原点になるのである。  そしてその発展の発条《ばね》として、「若い特攻隊員が死んでいったのに」という、具体的事実に根ざす感情があるのだ。  大西は帰京後軍令部次長の官舎に住んだが、八月十六日の朝に自決するまで、ついに妻と同居しなかった。淑恵は、やがて壕舎生活から児玉誉士夫の家にひきとられ、ここに二カ月住んで、それから東宝映画の増谷麟の家に厄介になっている。    国家あっての天皇[#「国家あっての天皇」はゴシック体]  あるとき、妻が身辺の整理を案じて、「私も官舎に住みましょうか」と申し出た。すると大西は「それはいかん」と、きっぱりとことわった。 「平時なら一緒に住んでもらっても、いいんだがな。いまはそんな時ではない。それに、軍人ではない家のひとも、焼け出されて、親子がちりぢりになって暮しているじゃないか。まして、この俺に妻とともに住むようなことができるか」  そういってから、彼は、眼を宙にすえて、ひとりごとのように呟いた。 「こんどの戦争だって、はっきりはいえないが、敗けるかもしれんしな。戦国時代には、どこの領主もみずから出陣して陣頭に立っておるよ。日露戦争のときも、明治大帝は広島の大本営にお出ましになり、親しく戦局をみそなわされている。それがいま、今上陸下は女官に囲まれて、今日なお家庭的な生活を営まれている。ここのところは、ひとつ陛下ご自身にお出ましになってもらわんと困るのだがなあ」  私は、大西夫人から懐旧談の一コマとしてこの言葉を聞いたとき、大西の決戦思想が鮮明になった感を受けた。  比較したい文章がある。五月二十五日、夜半の大空襲によって、宮城および大宮御所が炎上したそのときの鈴木貫太郎首相の姿を「鈴木貫太郎伝」の筆者はつぎのように伝えている。 「鈴木は宮城炎上の報告を受けると、迫水を伴って官邸の屋上にのぼり、紅い焔を吹いている宮城を遙拝して、涙で頬を濡らしながら、いつまでもいつまでも低頭していた。迫水はその姿を、表現する言葉を知らぬほど尊いものであったと語っている」(注、迫水は内閣書記官長迫水久常のこと)  鈴木は、皇宮炎上の翌日、「昨夜より今朝にかけての敵機の来襲に因《よ》り宮城並に大宮御所が炎上致しましたことは、唯々|恐懼《きようく》の至りに堪えぬ所であります」という「鈴木首相謹話」を発表している。これは首相として通例のことであろうから一応|措《お》くとして、鈴木が「頬を濡らして」炎上する皇居を見ていたのに対して、大西が「女官に囲まれた家庭的雰囲気からのお出まし」を口にしたのは、いかにも対照的である。  鈴木にあっては「天皇あっての国家」であり、大西にあっては「国家あっての天皇」ということになるであろう。  つまり、天皇を護持するためにも、国家は戦争による決着をつけるべきだ、という考えである。クラウゼヴィッツの言葉を借りるまでもなく、「戦争は最高の政治手段」である。大西はその原則に立っている。そのところが鮮明である。  そして、彼にあっては、「国家」はまだ充分に戦っていないという判断がある。その判断のモノサシになっているのは、特攻隊員の血と死である。それは、彼の皮膚感覚にすらなっている。  児玉の輩下にあった吉田彦太郎が、大西の身を案じて、「週に一度は奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と申し入れたことがある。 「そんなこと、いってくれるな」と大西は言下にことわった。 「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。六百十四人もだ」  大西は、はっきりと「六百十四人だ。俺と握手していったのが六百十四人いるんだ」といった。それから眼にいっぱいの涙をためた。 「君、そんなこというもんだから、いま、若い顔が浮んでくるじゃないか。俺はなあ、こんなに頭を使って、よく気が狂わんものだと思うことがある。しかし、これは若いひとと握手したとき、その熱い血が俺につたわって、俺を守護してくれているんだ、と思わざるをえないよ」  彼は、そういってから、すこし間をおいて、妻の淑恵に「家庭料理は食えないよ。若いひとに気の毒だものな」と、もう一度、念を押すようにいった。    天一号作戦による特攻[#「天一号作戦による特攻」はゴシック体]  戦史の上から見れば、特別攻撃隊の発進に踏み切ったのは、たしかに大西瀧治郎中将そのひとである。しかし、命令者の位置にいて、特攻隊発進を命令したものとなれば、寺岡謹平中将も豊田副武大将も、その名が記録に残っている。  豊田大将は連合艦隊司令長官として、米軍の沖縄上陸作戦が開始されるとすぐ、四月六日「天一号作戦」(三・二五発令)による「菊水一号作戦」を発動した。これは航空総攻撃を内容としていたが、水上部隊もこれに策応して沖縄に突入させることに急遽きまった。六万四千トンの戦艦「大和」を先頭に巡洋艦「矢矧《やはぎ》」など八隻の艦船による「艦隊特攻」である。この特攻艦隊は、スプルーアンスの指揮する機動隊に捕捉され、戦爆連合三百機の攻撃をかけられて、鬼界ヶ島付近の海底に叩きこまれる結果となった。  宇垣纒中将が「戦藻録」に書いている。 「今次の発令は全く急突にして、如何ともなし難く、僅かに直衛戦闘機を以て、これに策応するほかなかりしなり。全軍の士気を昂揚せんとして、反って悲惨なる結果を招き、痛憤復讐の念を抱かしむるほか何等得る所なき無謀の挙と言はずして何ぞや。退嬰《たいえい》作戦において、殊に燃料の欠乏甚だしき今日において、戦艦を無用の長物視し、また厄介なる存在視するは皮相の観念にして、一度攻撃に転ずれば、必要なること、敵が戦艦の多数を吾等の眼前に使用し、第三十二軍(沖縄軍)は戦艦一隻は、野戦七個師団に相当し、これが撃滅を度々要望し来れるに徴するも明なり……そもそも茲《ここ》に至れる主因は、軍令部総長奏上の際、航空部隊だけの総攻撃なりやとの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奏答せるにありと伝ふ。帷幄《いあく》にありて籌画《ちゆうかく》補翼の任にある総長の責任、蓋し軽しとせざるなり」  このときの総長は及川古志郎大将である。宇垣の「菊水一号作戦」に対する眼は、かなり冷静である。しかし、豊田連合艦隊司令長官は、さらに「天一号作戦」による特攻を発令する。この作戦には「菊水一号」から「菊水十号」までふくまれている。  一、諸情報を総合するに、敵は動揺の兆ありて、戦機は正に七分三分の兼合にあり。  一、連合艦隊はこの機に乗じ、指揮下一切の航空戦力を投入、総追撃を以てあくまで天一号作戦を遂行せんとす。  かくて四月十二、三日の両日、特攻機二百二機をふくむ三百九十二機は沖縄上空に決戦を挑んだ(菊水二号作戦)。  米艦十七隻が沈没。多数が損害を蒙り、乗組員の中から発狂する者が続出した。この一戦を目撃した「ニューヨーク・タイムズ」の従軍記者、ハンソン・ボールドウィンはつぎのように報じている。 「敵機の攻撃は昼も夜も絶えたことがない。慶良間の錨地は損傷船で埋めつくされ、太平洋至る所、傾きながら走る艦船の列が、東へ東へと進むのが見られた」    若い特攻隊員に申訳けない[#「若い特攻隊員に申訳けない」はゴシック体]  当事者である第五艦隊司令長官スプルーアンス大将の「特攻」に対する評価は、さすがに深刻である。四月十七日、彼は日本の攻撃がひと息ついたところで、太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥に意見具申を行なっている。 「敵の特攻攻撃の手練と効果、それによって受けるわが艦隊の喪失と損傷は、これ以上の攻撃を食い止めるため執り得るあらゆる方法を論じなければならぬ段階に到達した。使用し得るすべての飛行機で九州及び台湾の飛行場を攻撃することを進言する」  沖縄における特攻は、以上のようにアメリカ側にかなり心理的打撃を与えることになった。  その要点をかいつまんで紹介したのは、ほかでもない、「鈴木貫太郎伝」の筆者は、ハンソン・ボールドウィンやスプルーアンス大将の報告は「米内海相から鈴木首相、東郷外相にも伝えられた」としている。そしてつぎのようにいう。 「これで若《も》し沖縄奪還の機を掴み得るならば、それこそ神機到来、活発な外交手段をも講じ得ると、政府も軍部も一時生色を取りもどした感があった」  この記述は、各種の資料をつきあわせて、行なわれたと聞いている。したがって、事実であるとするなら、特攻をかけて敵の心胆を寒からしめ、それを契機として外交手段を展開するという方程式は、大西瀧治郎中将の発想したものと、なんらかわるところがない。ただ、大西中将はその特攻の思想を日本列島にまでエスカレートしようと主張して暴将≠るいは愚将≠フレッテルを貼られたのである。  彼がそれを主張したのは、外交手段によって得られる「平和」は「皇国三千年の伝統を汚すもの」になるからであり、そうなっては、彼の掌にぬくもりを残して飛び立った六百十四名の若い隊員に申しわけないと、信じたからである。そこには、いわば、戦争は戦争によって解決するという、価値判断の一次方程式が働いているのである。彼にとって「国体」という論理を超えた価値は、もはや問題ではなかった。  後述するように、大西を先頭とする海軍軍令部内の継戦派≠ヘ、八月十三日の夜、講和のための御前会議をひきのばそうと、和平派の間を説得してあるくことになった。大西中将は高松宮殿下の説得にあたった。これから出かけようとするとき、猪口参謀と偶然に顔をあわせた。猪口はフィリッピンで最初の特攻を発進させたときの参謀である。台湾まで大西と同行し、大西が軍令部次長に出仕したあと、鈴鹿海軍航空隊の司令に転じて、再び軍令部に配属されたものである。  猪口の手記によると、そのとき、二人はつぎのような会話をかわしている。 「どこへお出かけですか?」 「高松宮殿下のところへお願いに出かけるところだ」 「そうですか……私はさきほど殿下のところで、次長のことをひじょうに厳格な命令の遵奉者《じゆんぽうしや》ですから、大命一度くだればその通りやられますよ、と申し上げてきましたよ」(草柳注・これは猪口が大西のなお二千万人が死ぬような本土抗戦を耳にして、大西を牽制した発言である) 「国家の亡びるときでもそうかね?」 「亡びる亡びぬはだれがきめるのですか? 亡びると思うのはあなたの考えではないですか?」 「………」 「今こそ坊門の清忠の声を、陛下のお声とかしこんで引きさがった大楠公の通りやらなくてはなりませんよ」 「それは実にきついことだがなあ、それはそうだよ」    「死」の公平な分配[#「「死」の公平な分配」はゴシック体]  会話としてはこうなるが、猪口によると、大西は「坊門の清忠の声を陛下のお声とかしこんで引きさがった大楠公」という言葉にぶつかると、口をきゅっと真一文字に引きしめ、しばらく一点を見つめて黙ってしまったという。大西は中将で猪口は中佐である。本来ならば、中将が「大楠公」の故事をひいて中佐を説得するところが逆になっている。ことほど左様に、大西の中にある価値判断には「天皇」よりも「国家」の概念がつよかったわけである。  彼は「特攻」という「犠牲」を「犬死」に置きかえないために、日本列島をも「犠牲」に参加させようとしたことになる。この思想のゆきつくところは「死」の公平な分配である。掌の温《ぬく》もりがそうさせるのだ。血の自覚が「死」を公平に分配させようとしている。運命共同体の観念を主軸とする社会の、典型的な思想のあらわれと、見ることができないであろうか。  しかし、海軍軍令部内では大西は列外の人物≠ノなっていた。  軍令部内の、ことに作戦部は情報≠ニ計算≠ナ成り立っている。「国体」という観念も入ってこなければ、「掌の温もり」も介入してこない。追求さるべきは情報≠ニ計算≠ノよる、彼我の戦力の差である。それを追ってゆくと、日米間の戦力はほとんど絶望的なほどひらいていることがわかる。その現実を前にしてみると、大西中将の態度は無謀の軌道を走っているかのように見えてくる。  彼は作戦会議の席上で「最後まで、どんな場合でも、自分はいま一戦を交えるつもりだ。みんなはどうだ?」と、例の大きく光る眼で一座を睨みまわした。  これが、大西一流の問いかけであることは、「特攻」を編成する場面で紹介しておいたとおりである。わざと極端なことをいって、反対意見や修正意見を触発させ、それを聞きながら、適当な意見にまとめあげようというやり方だ。が、作戦会議ではこの手は通用しなかった。 「最後まで一戦をまじえる? そんなことがこの戦力でできるものか」と、海大出身のエリート課員は、一様にそっぽをむく思いである。わずかに「国家思想」を奉ずるものが大西にしたがった。  余談になるが、国定謙男少佐を紹介しておく。八月十五日の夜、国定少佐ら軍令部部員の有志は、大西次長を官舎に訪問している。酒がまわると、大西は涙を流しながら「これから先、日本がどうなるかは分からない。然し唯一つ君達は日本人として恥じないように行動してもらいたい」といった。  その夜更け、国定は同期の太田少佐とともに、宿舎になっていた第一ホテルの部屋に帰ってきた。そこで彼は泣きながら太田にいった。 「俺は残念だ。降服とは残念だ。俺はもう生きて居れない」  太田は必死になって国定を説得した。そのあと、鈴木英中佐も国定に「大命によるものだから仕方がないのだ」と、自決を思いとどまるように説得を重ねた。  しかし、国定少佐は八月二十二日午前三時、海軍が「予科練」を育てた土浦町にある善応寺の墓地で自決をとげた。三十三歳の若さである。    死ぬことを建て前として[#「死ぬことを建て前として」はゴシック体]  国定が善応寺をえらんだのは、ここに維新の志士であった佐久良|東雄《あずまお》の墓があるのと、彼自身が「予科練」の教官として、特攻隊員を育てたからである。国定は鈴木中佐の説得に対して「自分は武装解除には応じられない」と主張している。思想も行動も、大西中将と相似形である。  しかも、国定少佐は病身であったため「無条件降服したその後に於て、妻子を連れて路頭に迷うような恥を受けたくない」と、妻と二人の子どもを道連れにしている。妻の喜代子は三十一歳、長女緋桜子は五歳、長男隆男は二歳である。  自決直後の模様を、田々宮英太郎が「大東亜戦争始末記」の中で、聞き書きの形で述べている。 「松の巨木の傍には、喜代子夫人と長男の隆男ちゃんが向い合い、その手前に、長女緋桜子さんが、並んで仰向けに倒れている。いずれも、頭を東方に向けていた。夫人は紺絣《こんがすり》のモンペ姿に白足袋をはいている。女の子は絽《ろ》の赤い模様の着物、男の子はセーターにズボン姿だった。  拳銃のたまは、いずれも左コメカミから射ちこまれ、夫人は右頬、子供たちは右頭部をつらぬかれ即死である。少佐自身は第三種軍装で、長剣や図嚢《ずのう》まで着けている。軍帽をとると、たまっていた真赤な血が、どっと地上にこぼれ落ちた。意識はないのだが、脈搏だけはまだ打っている。小型の陸式拳銃は右コメカミを射ち、左側へ貫通しているのだが、丈夫な心臓が辛うじて生命を維持したようである。少佐と三つの遺体は、航空隊の病院に運ばれたが、少佐の絶命はじつに午後三時三十分であった」  猪口参謀は、大西中将や国定少佐などが、「本土抗戦」を主張して容れられなかったことについて、「それは死ぬことを建て前としたものと、生きることを建て前にしたものとの相違である」と述べているが、大西や国定が「死ぬ」を建て前としたその前提に「特攻発進」があったことはいうまでもない。  大西中将は、特攻隊が出撃する際に与えた訓示の中で「命ずる者も死んでいる」という言葉を使った。彼自身に即していえば、六百十四名の若い生命を自分の生命ひとつが引き受けたのだ、という思いがあろう。特攻隊員は大西という「死者」から発進して、つぎつぎと死者の列をつくっていったのである。大西は、想念の中でこの死者の列と遭遇し、しばしば涙を流し、彼らしい豪快さを失って、とぼとぼとした気持になっている。  そのような大西を軍令部の主流が評価するわけがなかった。あまつさえ、大西は米内海相や豊田軍令部総長のいる前で、作戦部長の富岡定俊少将を面罵したことがある。富岡は、海軍きっての作戦家であり、人格識見ともに敬仰の的になっている。開戦当初は作戦部第一課長のポストにあり、終戦時には作戦部長の要職を占めているのだ。  もとより、戦争終結の見とおしを持っているから、大西の「最後の一戦まで」に対して、危うさを感じていたわけである。それが口の端に出る。大西が激怒する。その激怒が、自分の経験でしかモノをいえない軍人という印象をふかめる。  米内が大西の激怒に青年将校の主戦論を吸収したとするなら、大西は激怒することによって、彼の終戦構想を推進しようとした、といってもよいであろう。  終戦間際になって、大西は「米軍基地特別攻撃隊」を発案し、軍令部員を脱帽させている。    B29焼打ち計画[#「B29焼打ち計画」はゴシック体]  日本の都市は米軍の無差別爆撃にさらされている。迎撃しようにも戦闘機はなく、レーダーも稚拙《ちせつ》で高空のB29捕捉できない。高射砲も、もちろん、一万メートルという上空には届かない。  万事休す、と思われた。そのとき大西が「基地にあるB29焼き払えばいいだろう」といった。すでに先例がある。沖縄戦のさ中、五月二十三日の夜、「義烈空挺部隊」が北、中飛行場に強行着陸し、飛行機を焼いたり滑走路を爆破して、数日間、使用不能に陥らしめている。  東京空襲のB29、ほとんど、サイパン、グアム、テニアンを発進していることはわかっている。それなら、B29爆撃を終えて帰投するとき、味方機はそのあとをつけていって、サイパンやテニアンの基地にいっしょに着陸すればよい。米軍の防禦砲火は、友軍機と一緒の日本機を狙うことはできまい。そこで着陸は可能になる。そのあとは、特攻隊員がオートバイに分乗、飛行場の中を駆けめぐって、着陸したばかりのB29焼き払ったらどうだ、これが大西のプランだった。  軍令部は採用した。さまざまに検討した結果、それではB29打ち≠ノなにを使うべきか、が最後にのこった。大西もやや苦吟気味だったが、数日もすると、「おい、できたぞ」と、二個の缶詰を持ってきた。なんでも缶詰工場の社長に教わったそうで、イワシやクジラの大缶程度のものに爆薬をつめ、この蓋の上に「とげ」を立てる。軍令部ではこの「とげ」のことを「ノー・リターン」とよぶことにした。B29左右の主翼はガソリンタンクである。しかもジュラルミンでできている。そこへこの「とげ」を突き立てれば、ぶすりと入ってしまう。あとは時限装置の爆薬が破裂する。「ノー・リターン」とつけたのは、翼に「とげ」が突き刺さったら、絶対に抜けることがないからだ。特攻隊員はオートバイを駆って着陸したばかりのB29この装置をしかける。彼らもまた「ノー・リターン」なのである。 「大西中将の着想の奇抜さには、軍令部員も誰一人、舌をまかぬものはなかった」と土肥一夫中佐は述懐している。さて、この「B29打ち計画」は着々と進められ、特攻隊員の訓練も行なわれた。「サージン何号」と番号のついた缶詰を二個ずつ飛行服のポケットに入れ、オートバイにまたがって飛行場を疾駆する姿は、やや異様であった。  決行日は八月十日ときまった。ところが、特攻隊員を乗せて、東京から帰投するB29後をつけてゆく飛行機が米機の攻撃で損傷を受けた。その修理に手間どり、決行日は八月十日から八月十七日へと延期された。結局、実現できなかったわけである。実現できても、果して日本側の思いどおりにいったかどうか、わからない。が、大西中将の「戦争を続ける」という意図は鮮明になったであろう。    死中に活を求む[#「死中に活を求む」はゴシック体]  だが、事態は大西を列外≠ノ残して「和平」の方へ大きく傾いていった。  七月には近衛文麿を特使としてソ連におくり、和平工作を依頼する計画がすすめられた。が、ソ連側は「日本の申し出は抽象的すぎてよくわからない」と突っぱね、交渉はモスクワ段階で停滞した。  七月二十六日 ポツダム宣言発表。  八月六日   広島に原子爆弾。  八月八日   ソ連参戦。  八月九日、天皇から催促があって、鈴木首相は木戸内府と相談の結果、緊急閣議をひらいて「ポツダム宣言」を検討、ひき続き「最高戦争指導会議」をひらいた。果せるかな、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が強硬に反対、東郷外相の「三国首脳宣言の線で交渉すべし」という意見と鋭く対立した。結局、「皇室の安泰を確保すること」「自主的撤兵」「保障占領を行なわないこと」「戦争犯罪者の自主的処理」を四条件としてつけることになった。  この話が伝わるや、高松宮や重光前外相は「条件付きでは連合国が拒絶し、せっかくの機会を失うばかりである」と、木戸内府に申し入れを行なっている。後日、大西中将は「最後の御前会議」を引きのばしてもらおうと高松宮を訪れているのだから、事情に昏《くら》かった難は免れえない。当時、内閣書記官長であった迫水久常によると、軍人も将官となって行政府に入ると、異なった分野の名士≠ニ親交ができるものだが、「大西中将にはそれがなかった」といっている。大西自身に戦地勤務が多かったことが、軍以外の分野に顔を出すチャンスを失わしめたわけである。それもあるが、大西が親交を結んだのは矢次一夫や児玉誉士夫のような、常識や理論ではからめとることのできない怪物≠ナあったことも否みえない。そのような大西にとって、高松宮は「和平派」というよりまだ「皇族」として映っていたわけである。  九日の夜から「御前会議」になった。軍部は、「必勝を期することはできないが、必敗と定めることもできない。敵を水際にひきよせて打撃を与え、死中に活を求める余地は残っている」と強調した。これに対して東郷外相は、「この際は戦争終結の好機であり、天皇のご地位と国体に変化がないことを前提に、ポツダム宣言を受諾するほかはない」と、条理をふまえて主張した。  深夜になった。午前二時、対立はとけなかった。鈴木首相がすすみ出て、「このうえはご聖旨を忝《かたじけな》 くして、本会議の決定といたしたい」と奏上した。  その結果、「聖断下る」の場面になる。日本政府は、連合国に対して、「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解のもとに受諾す」という電報を発する。  八月十二日、外務省ラジオ室が連合国側の回答をキャッチする。ほとんど同時に、同盟通信の外信部もその電波をとらえ、安達記者が迫水書記官長のところへ届けた。外務省の松本俊一は「全文を読みながら神経にヒシヒシと響くところがあり、これはいかんと、また読みかえした」といっている。  問題点は三つである。「降服の時より天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認むる措置を執《と》る連合軍最高司令官に従属さるべきものとする」という箇所である。外務省は「従属する」の「サブジェクト・ツウ」(subject to)という言葉を、刺激をさけるために「制限の下におかるるものとす」と訳している。しかし、陸海軍の主戦派≠ヘこれを「隷属せしめらる」と訳していたのだ。  第二点は「最終的の日本国の政府の形態は国民の自由に表明する意思によって決定される」という点であり、第三点は「連合国軍隊の保障占領」であった。  果せるかな、陸海軍統帥部はこの箇所を問題にした。午前八時二十分、梅津参謀総長と豊田軍令部総長は、列立上奏を行なった。  この内容では、帝国は属国化し、国体は破滅することは必定であり、また外征数百万の将兵を統率することも不可能になる、と力説した。    講和ひき延ばしに必死[#「講和ひき延ばしに必死」はゴシック体]  この列立上奏を知って、烈火の如く怒ったのは米内海相である。梅津はともかく、豊田軍令部総長が海相に一言も相談せず、上奏に出かけたのがいけなかった。米内は「一軍人の生涯」の中で、豊田と大西次長を呼びつけて、一時間半ばかり厳しく叱責したと書いている。豊田に無視≠ウれたというより、すでにポツダム宣言に受諾の態度を示しているのに、ラジオ放送を聞いたくらいで上奏するなど、軽率きわまりないと、その点を怒っているのだ。高木惣吉の「私観太平洋戦争」には、高木が米内のところへ慰労の言葉をのべにいった際、米内が「今日は一時間半ばかり、総長と次長を呼んで注意した」という談話がのっている。 「(前略)今日はだんだん詰めよったところ、結局敵側の条件では統率上はなはだ困ると思っていたところに放送を聞いたので、つい誤ったと言っていた。極力善処する、進退はいつでも覚悟しているという意味のことを言ったから、それは君が考えなくてもよい、私が考えることだと言っておいた。次長に引きずられるのだョ、次長を呼んで、うんと叱ってやった。すでに聖断がくだった以上、絶対であって、いかなる困難があっても思召しにそうよう万全を尽すべきである」  また、海相の麻生秘書官の回想も出てくる。 「大臣が次長を叱りつける声が、秘書官室まで手にとるように聞えてくる。大臣が、あんな大きな声を出したのは、はじめてのことで、私は古川秘書官と語らい、もしものことが起ったら、すぐ大臣室にかけつけようと身構えをしていた……」  米内海相も終戦工作に必死だったが、同時に大西中将も講和ひき延ばし≠ノ必死になっている。最早、大西は米内の設定した「緩衝装置」から離脱し、自己運動をはじめているのだ。米内はそれを制約しにかかったわけである。  ところが、大西は米内からこっぴどく叱られたにもかかわらず、講和ひき延ばし≠フ運動をやめていない。  米内から叱られた直後、大西は軍令部で会議をひらき、御前会議をなるべくひき延ばし、和平派を説得する工作をたてている。大西自身は高松宮にあい、高松宮から米内を説得してもらうようにたのむ。土肥中佐は永野修身元帥を、富岡第一部長は及川古志郎大将を、大前第一課長は野村直邦大将と近藤信竹大将を、それぞれ説得するよう割当がきまった。一同がそれぞれの訪問先に出かけたのは夕刻である。ただ、富岡少将の立場は微妙であった。彼は出発に先き立ち、第一課の作戦課員を集めて、こういった。 「私は天皇陛下の御聖断にしたがうつもりである。もし、私と異なる意見のものは、率直にいってほしい」  作戦課員はほとんど応答しなかった。自決した国定少佐は、動員と戦備をあつかう第二部の部員であり、その場に居合せない。    もはや必勝の方策なし[#「もはや必勝の方策なし」はゴシック体]  ところが、大西といっしょに米内に叱責された豊田副武は、十三日の夜、またも独自の行動をとっている。  八月十四日には「御前会議」がひらかれることになっていたが、それに先き立ち、平沼騏一郎枢密院議長から迫水書記官長あてに、「天皇の御位置は惟神《かんながら》の道であって、ポツダム宜言にいうように≪日本国国民の自由に表明する意思によって決定される≫と、わが国体の本義とちがってくる。この点、アメリカは理解が不足しているように思われるので、敵側にわが国体の本義を説明したうえ、もう一度回答をとりたまえ」と、申し入れがあった。  迫水は「御前会議」の前日だけに、頭を抱えた。果せるかな、この平沼枢密院議長の提案に陸海軍の主戦派は手を拍《う》ってよろこんだ。連合国側の回答如何では、八月九日の「ご聖断」がひっくりかえらないとも限らない。  夜に入って、梅津・豊田両総長から迫水書記官長に申入れがあった。東郷外相にあって、「もう一度、連合国側の国体≠ノ関する考え方を聞くように要請したい」というのである。  迫水は、東郷に明快な説明をしてもらおうと考えた。そこで、とって置きのオールド・パーを一本用意し、東郷外相と両総長の会談をしつらえた。  東郷は「そんなことはできない」と突っぱねた。夜は更けていったが、両総長もなかなか「そうか」といわなかった。迫水は、会談の空気から、両総長が自らの本意でこの場に来ているのではないことを察知できた。あきらかに下部からの突き上げ≠ェ、彼らを東郷にあわせている、そんな空気だった。  会談の途中で、大西中将がその場に姿をあらわした。眼が血走っている。「いままで高松宮殿下にお目にかかっていたが、この線での工作はだめでした。これからぜひ総長におあいしたい」と、迫水にいった。迫水はいっそのこと、東郷外相も梅津参謀総長もいる場所で大西を豊田にひきあわせようと思った。 「大西次長がお見えです。総長にお目にかかりたいそうですが、ここにご案内してもよろしいですか」 「そうか。うん」  豊田が短くいった。薄暗い電灯の下を大西中将の幅広の身体が進んだ。すぐ、手短かにいった。 「閣下。高松宮殿下にお目にかかりましたが、殿下から陛下は陸海両軍をご信頼になっていない≠ニのお言葉でした。また、必勝の方策はあるのかとのお訊ねで、私は海軍にはありません≠ニお答えしておきました。いまや、陛下のご信頼を回復するほかはありません」 「そうか」  豊田はそれしかいわなかった。大西を先頭とする主戦派≠ノ動かされてその場にいる以上、大西の報告をきくほかはないわけである。大西は、なおも、部屋の中に突っ立ったままである。    私たち軍人は甘かった[#「私たち軍人は甘かった」はゴシック体]  そのとき、空襲警報が鳴った。一同が椅子から腰をうかすと、それがなんとなく解散のきっかけになった。外相と両総長が夏の闇の中に消えてゆくと、大西は迫水とむかいあって話しはじめた。それは、胸中のものを吐き出すような調子だった。 「私たち軍人は、この四、五年間、全力を尽して戦ってきたように思いますが、昨日あたりから今日にかけての真剣さにくらべれば、まだまだ甘かったようです。この気持で、なお一カ月間も戦を続ければ、きっと、いい知恵がうかぶと思うんです。あと一カ月、なんとかならんでしょうか」 「もはや、どうしようもないでしょう」と迫水は断言した。「いま閣下のおやりになるべきことは、一刻も早く、海軍の内部を収拾することではないでしょうか」 「そうですか」と大西は立ち上り、迫水に握手を求めた。それから迫水の手を両手で包むようにすると、はらはらと涙を流した。 「なにか、よい知恵はないでしょうかねえ。なにかないかなあ」  大西は、泣きながら呟くと、迫水から手を解き、悄然として暗がりの中に消えていった。これが迫水の見た、最後の姿になった。  軍令部には猪口参謀ひとりが大西の帰りを待っていた。あまり遅いので、猪口も引き揚げようとしたところへ、大西の重い足音がきこえた。それは、いかにも歩くのが億劫だというような、投げやりな足音であった。「だめだったな」と直感した。果してそのとおりである。大西は椅子にすわると、「なにかないかな。もう、万事休す、だろうか」と呟いた。猪口は「まだ、方策はありますよ」といった。 「和議をひき延ばすために、高松宮に伊勢神宮に参拝していただくよう、おねがいしましょう」 「ぜひ、そうしてくれ」  翌日が最後の御前会議になる。宮中の防空壕に大西も出かけていった。大勢は決していた。大西は、最早、米内にも豊田にも必要な人物ではなかった。阿南陸相ですら、電話を使って陸軍内の主戦派をだまし、戦争の収拾に肚《はら》を固めていた。  大西は、部屋の外にいて「陛下、おねがいでございます」と繰りかえした。 「われわれ海軍は至っておりませなんだ。まだ、頭の使い方が足りませんでした。あと五、六カ月、ご猶予ねがえませんか。海軍は新しい考えを出すでありましょう。おねがいでございます」  これが「特攻」を発進させた責任者の、最後の提案、提案というより嘆願であった。彼の「本土決戦」思想は、根を探れば、特攻機に乗りこんだパイロットへの贖罪《しよくざい》意識にある。それが、国際外交のダイナミズムに貫徹するはずはなかった。  聖断下る――。  陛下が退出され、重臣たちが静かに椅子を軋《きし》らせて部屋から出ていった。大西は、いつまでも椅子にすわっていた。米内が肩を叩くと、小さく頷いたが、腰を上げようとしなかった。伺候《しこう》の間に人影が消えた。やがて宮内省の属官が入ってきて、椅子を片づけはじめた。その音に大西は顔をあげると、属官たちに声をかけた。 「あなたがた、なにか、いい考えはありませんか。国を救うにはどうしたらいいという……」  夕刻。大西は「児玉機関」のあるビルの階段を昇ってきた。扉をあけて、立ったまま「ダメだったよ」といった。児玉が一度も見たことのない、総毛立った顔をしていた。椅子に身体を沈めて、しばらく御前会議の模様を話していたが、児玉に「俺は、今夜、官舎にとまるよ」といった。妻の淑恵が増谷の家に移ってから、大西は児玉の家に寄宿していた。大西は児玉の贈った軍刀二振りと洗面道具を抱えて、児玉家から出ていった。「死ぬ気だな」と児玉は思った。  大西は、その夜、矢次の家で痛飲し、闇の中に高笑いを残して帰っていった。翌十五日が玉音放送である。従兵が朝の茶を運んでゆくと、大西は部屋の中央部に直立不動の姿勢で立ち、頭を東方に垂れて、嗚咽《おえつ》の声をほとぼらせていた。悲鳴に近い、うめくような泣き声であった。  十六日の午前零時に近く、軍令部の将校たちが引き揚げたあとで、従兵が熱い茶をもってゆくと、大西は蚊帳の中に端坐して、なにかしきりに書きものをしていた。それが遺書であることは、蚊帳の外からはわからなかった。彼は、最後の作業をおえると、蒲団と蚊帳をきちんとたたんで押入れに入れ、部屋の中央にシーツを敷き、その上に正坐して、軍刀を腹に突き立てたのである。  淋しい通夜であった。  妻の淑恵と若い副官の二人だけが、遺骸の前にすわっていた。妻の淑恵は、八月十二日、群馬県下仁田に疎開していた母親の許にいった。前日、「疎開しろよ」と大西がみずから切符を届けに来たのだ。淑恵は母を伴い、十三日に千明《ちぎら》牧場に入った。そして十六日には、「大西自刃」の報を持った児玉に迎えられ、とって返したのである。  遺骸の前で、児玉がいった。 「奥さん、泣きなされ。大声をあげて泣きなされ。武人の妻が泣いちゃいかんなんて、そんなのウソだ。ここなら泣いてもいいんだ」  裏庭で木を伐る音が聞えていた。従兵が棺桶を作っているのだった。終戦のごったがえしで、海軍からは霊柩車一台、棺桶一本こないのである。いや、花さえなかった。淑恵は、夫が花好きであったことを思い、官舎の庭を歩いてみた。おいらん草が三、四本、わびしく咲いている。それが、ひどく惨めに見えた。納棺のとき、多田海軍次官の妻が紅い花を腕の中に抱えてきた。 「麻布のあたりをとおりかかったら、夾竹桃がいっぱい咲いていたのよ。そこの家のひとに、ある人が亡くなったけれど、お棺に入れる花もないんですと、たのんだら、どうぞお好きなだけ、と折って下さったの」  夾竹桃の紅い花が大西の死顔のまわりを埋めていった。その華やかな光景が、かえって妻の涙を誘った。  運転手がどこからかトラックを借りてきた。トラックがゆれるたびに、棺桶はごとごとと音を立てた。落合の火葬場近くまで来たとき、爆音がして眼をあげると、零式戦闘機だった。一機、零戦は低空で突っこんでくると、トラックの上で翼を振り、そのまま一直線に青い空の小さな点になった。         ×    ×    ×  鶴見の曹洞宗大本山総持寺に、大西瀧治郎の墓がある。黒御影の小ぢんまりとしたもので、墓に向って左手に観音像が建っている。「海鷲観音」とよび、特攻隊員の若い霊を弔う微志という。 [#地付き]〈了〉 単行本 昭和四十七年七月文藝春秋刊