特攻の思想
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特攻の思想 大西瀧治郎伝
草柳大蔵
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ま え が き
――なぜ「特攻の思想」を書いたか
思えば、永い道程であった――。
昭和四十三年の秋、「大西瀧治郎中将のことを書いてみないか」と足立助蔵氏(海軍少将)から誘いをうけた。
不思議なめぐりあわせというべきであった。
海軍特別攻撃隊員の手記は、すでに、数多く出版されている。どの一冊、どの一篇を読んでも、胸を打たれ、涙を禁ぜざるはない。若き学徒兵は、その精神の次元において、精一杯の心情を吐露し、あるいは怒り、あるいは諦め、あるいは信じて、文字を連ねている。私は、彼らの遺稿を読みながら、ふと、手をとめることがあった。それは、「特攻」という攻撃手段の特異性からくるものであった。
本文にも指摘しておいたが、「決死」と「特攻」とはまったく性質をことにしている。「決死」は「死」を主観にゆだねている。また「決死隊」の背後にはつねに「救助」が用意されている。日露戦争の旅順港閉塞のときも、閉塞隊の背後に救助艦隊が配置されていた。
しかし、「特攻」は「死」を客観にゆだねている。当事者は「死を覚悟」しているのではなく、「死」でしか任務を遂行できないのである。もうひとつの大きな相違点は、「決死」はある局面にのみむけられるが、「特攻」はいわば「制度」として採用された、持続的な組織である。
このような考えに立つとき、私は、「特攻に送られた若者」の手記が陸続と刊行される中で、「特攻を送った側の論理」が公開されていないことに疑問をもった。何年ごろか忘れてしまったが、特攻を創始したのは大西瀧治郎海軍中将だという話が耳につたわった。方々の雑誌に、大西中将と縁のあった人々が回想記を発表しているのを目にすることもできた。それはそれで、大西中将の|風※[#「ノ/二に縦棒を通す」]《ふうぼう》を伝えていたが、局部的であったり心情的であったりして、「特攻」が制度化されてゆく思想的構造にまとまらない憾《うら》みがあった。
「送られた側の心理」よりも「送った側の論理」を追及してみないことには、「特攻」が限界状況から生まれた一時的な思想的産物なのか、あるいはわれわれ日本人の精神構造と深くかかわりあっているのか、そのへんがわからない。そんな大それた考えを持っているとき、足立氏から誘いがあった。
もとより、戦史・戦術の専門家ではない。昭和三十二年に刊行された「大西瀧治郎伝」(故大西瀧治郎海軍中将伝刊行会・非売品)と「神風特別攻撃隊の記録」(猪口力平・中島正共著・雪華社)を手がかりとして、あとは生残者のインタビューと資料によるジャーナリズムの仕事である。数多くの人々の時間を頂き、資料の提供を受けながら、大西中将の思考過程をとぼとぼと辿るほかはなかった。
大西中将を暴将≠ネいし愚将≠ニする意見がある。ある高官は、声をひそめて「君、特攻は大西君の猿マス≠セったんだよ」とさえいった。猿に自慰を覚えさせると、精力をつかい果すまで続ける、それと似たようなものだというのである。
このようにきめつけてしまうことが、じつは「特攻」の創始者を一般に理解させるうえで、最も手取早い方法であろう。「特攻」は戦争末期、気違いじみた一提督によって断行されたのだ、「帝国海軍」とは縁もゆかりもない、ヒステリー現象である――そういうことになる。
あたかも、特攻の先陣を切った「神風特別攻撃隊」の呼び名が、「しんぷう」からいつの間にか「かみかぜ」にかわり、「かみかぜ運転」とか「かみかぜドクター」というように、揶揄的《やゆてき》に使われ出したのと、同じような精神状況である。
しかし、気違いじみた一提督の発案と判断によって、二千五百三十名(海軍関係二千六十五名)の若者が「死」を客観にゆだねえたであろうか。昭和十九年十月二十五日から敗戦の日まで、二千三百六十七機もの飛行機が持続的に出撃しえたであろうか。
私は、そこからさらに大西中将を「特攻の創始者」とする判断にも疑問を持った。世界戦史上、類をみない自殺戦術が、たった一人の人間の論理や心情から産み出されるであろうか。
取材の途中、大西中将の副官をしていた門司親徳氏(元海軍大尉)から、中将が洩らした言葉をきいた。
「わが声価は、棺を覆うて定まらず。百年ののち、知己またなからん」
この言葉を耳にしたとき、私は男の心情の軋《きし》みを聞く思いがした。大西中将は暴将≠ニいわれたことにひと言も弁明せず、特攻の創始者という汚名を一身に引受けて、黙って死んでいったのだ。彼は、五尺何寸かの身体の中に、憾みと涙と怒りをいっぱい溜めて、地下に眠っている。しかし、それでは困るのである。
私は、大西中将の名誉を回復しようとは思わない。回復しようにも、彼は、ただひたすらに詫び、一言の弁解もせずに死んでいったので、手がかりがない。だから名誉回復はできないが、彼が「特攻決定」の立場に立った、あるいは立たされた、その思想的過程は回復したい。それは、少くとも、当時の状況を掘りおこし、それと大西中将とのかかわりあいを探ってゆけば、すこしはあきらかになるはずである。
第一稿は、昭和四十三年十月号の「文藝春秋」に書いた。あまり気に入らず、全面的に書き直すことにして、大西像を思いあぐねながら歳月が流れた。その間、藤沢隆志氏が補正取材をしてくれた。ようやく、「特攻」の思想の延長線が現代をも貫いていることに気がつき、昭和四十六年の「諸君!」六月号に連載を開始した。それから十カ月経過し、さらに、専門語の手直しなどがあって、今日ようやく刊行することができた。
永い道程を、あたたかく見守ってくれ、ときには励ましのお声をかけて下さった方々に、厚くお礼を申し上げます。みなさんのご支援がなければ、私はこの長丁場のレースを放棄したかもしれません。また、「文藝春秋社」の向坊寿・半藤一利・田所省治・鈴木經太郎各氏には、ほんとうにお手数をかけました。ありがとうございました。
壬子 催詩欲雨の頃
[#地付き]草 柳 大 蔵
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特攻の思想 大西瀧治郎伝[#「 大西瀧治郎伝」はゴシック体]
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第 一 章
若いもんは生きて日本をつくれ[#「若いもんは生きて日本をつくれ」はゴシック体]
大西瀧治郎中将が海軍軍令部次長の官舎で自刃したのは、昭和二十年八月十六日の午前二時四十五分である。生命力のつよい男で、作法どおり腹を十文字にかき切り、返す刀で頸《くび》と胸とを刺していながら、なお数時間は生きていた。
発見者は官舎の使用人である。朝の光の中に、彼の部屋の電灯がぼんやりとついているのを見て、扉をあけると畳一面の血しぶきであった。
急報によって、多田武雄海軍次官が軍医を連れて駈けつけ、前田副官と児玉誉士夫も現場に急行した。
大西は、近よろうとする軍医を睨んで、まず、いった。
「生きるようにはしてくれるな」
腸が露出し、もはや助かる見込みはなかった。その状態の中で、凝然と息をのんでいる児玉誉士夫に、大西はしっかりした口調でいった。
「貴様がくれた刀が切れぬものだから、また貴様とあえた。おい、すべてはその遺書に書いてある。だが特別に貴様にたのみたいことがある。厚木の海軍を抑えてくれ。小園《おぞの》大佐に軽挙妄動をつつしめと、大西がそういっていたと伝えてくれ」
その言葉に、児玉は頭の中が熱くなって、部屋の中にあったもう一本の刀を抜くと、心臓にあてがった。そのまま大西の上に折り重なれば死ねる。そのとき、「バカモン」と大西はつよい声を出した。
「貴様が死んでクソの役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて日本をつくるんだよ」
軍医が傍から「稀なくらい心臓がつよいから、まだ数時間はもちますよ」と、はげますようにいった。
児玉は、夫人を呼ぼう、と思った。淑恵夫人は、群馬県尾瀬の千明《ちぎら》牧場に疎開している。中将から「軍人の妻は夫に余計な心配をかけるな」といわれて東京を離れた。
「閣下、奥さんがくるまで待って下さい。ここまで来て、死に急ぐことはないでしょう。いま、私がお迎えにまいります」
児玉がいうと、大西は蒼白な顔をゆがめて笑った。眼だけが光っていた。
「バカ。軍人が腹を切って、女房がくるまで死ぬのを待つなんて、そんなアホウなことができるか。それより、あの句はどうかね」
色紙がかかっていた。児玉は、大西の言葉ではじめてそれに気がついた。
すがすがし暴風のあと月清し
「おやじの句としては、出来のいい方かね」
「そうかな」
児玉は、すぎ去ってゆく時間をつかまえるかのように部屋を出て、海軍省の自動車に飛び乗った。しかし、大西の生きている姿を見たのは、それが最後となった。
遺書は二通あった。一通は妻の淑恵宛のものである。「瀧治郎より淑恵殿へ」という書き出しで始まっている。夫婦の間に子はなかった。
[#挿絵(fig.jpg)]
一、家系其の他家事一切は、淑恵の所信に一任す。淑恵を全幅信頼するものなるを以て、近親者は同人の意志を尊重するを要す。
二、安逸を貪ることなく世の為人の為につくし天寿を全くせよ。
三、大西本家との親睦を保続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を入るゝの要なし。
之でよし百万年の仮寝かな
もう一通は「特攻隊の英霊に曰《もう》す」で始まるものである。
「特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ、
聖旨に副《そ》ひ奉《たてまつ》り、自重忍苦するの誡《いましめ》ともならば幸なり、
隠忍するとも日本人たるの衿持《きようじ》を失ふ勿《なか》れ。諸子は国の寶《たから》なり。平時に處し、猶ほ克《よ》く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡せよ」
大西瀧治郎、行年五十五歳。
海軍軍人としての最後にあたって、彼の脳裡をさいなんでいたものは、みずからの手で「神風《しんぷう》特別攻撃隊」を編成し、発進せしめたことである。ちなみに、太平洋戦争における「特攻隊」の参加人員は二千五百三十名、飛行機は二千三百六十七機におよんでいる。
「特攻は統率の外道」[#「「特攻は統率の外道」」はゴシック体]
「大西瀧治郎伝」の筆者は、大西と特攻との関係をつぎのようにのべている。
「世上では特攻を創始したのは大西であるかのようにいう人も少なくないが、如何にも大西は海軍航空界の信望を一身にあつめた名将ではあったが、しかし、特攻というあの前代未聞の大事が、特定の一人二人の思い付きでできるわけのものではないのであって、測り知れない深い歴史的な背景と、全作戦軍の澎湃《ほうはい》たる祖国愛、なかんずく、若き戦士達の不屈の闘魂こそ、真の生みの親というべきで、特攻生みの親などと称せられることは、誰よりも大西自身のよろこばぬところであるにちがいない。事実潜水艦にあっては航空に先んじて、黒木大尉、仁科中尉等若き特殊潜航隊員の救国の熱血によって十九年九月には既に特攻が決定され、大津島で体当り攻撃訓練が開始せられていたのだし、航空機にあっても特攻的攻撃はしばしば敢行されていたのであった。彼はかかる大勢の焦点に立っていたので、いわば生れ出《い》ずべくして生れた飛行機特攻を、正式組織化し、計画化した産婆役に任じたと見るべきであろう。彼こそは最適の産婆役たり、類いなきすぐれた号令者であったのである」
私の見るかぎり、以上のような見解が、大西の「特攻」編成をやむをえぬとする立場に共通のものである。さらに踏みこんでいえば、源田実のように、「大西の立場に立たされれば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃したであろう。それが海軍軍人である」といういい方にもなってくる。
しかし、実際に徴してみると、この「大西瀧治郎伝」の著者が使っている「特攻的攻撃」と「特攻」は、ちがうようである。
「特攻的攻撃」の伝統を「特攻」発生の土壌であるかのように説くむきは、旅順港|閉塞《へいそく》隊や真珠湾攻撃の特殊潜航艇隊を例にあげるが、これは決死隊であって特攻隊ではない。
決死隊の場合は、参加したものが死を主観にゆだねている。「おそらく生還できないであろう」という可能性を思い切り拡大している。しかし、客観的にはこれらの決死隊には「全員収容」という条件が背景にある。
真珠湾攻撃に特殊潜航艇を進発させるにあたって、ときの連合艦隊司令長官山本五十六は、この計画に「全員収容」というメドが明らかになるまで、絶対に許可をあたえなかったのだ。
あるいはまた、空中戦で敵弾を受け、帰還不能となった飛行機が相手に体当りして自爆した場合でも、結果は「特攻」と同じであっても「帰還不能」という自己判断が媒介となっている。
「特攻」は、「特攻的攻撃」が死を主観にゆだねているのに対して、死を客観にゆだねている。「全員収容」の客観条件ははじめからなく、また「自己判断」も入りこむ隙がないのである。一口にいえば、「特攻」は単なる「自決」ではなく、「他決」の上における「自決」である。
また、「特攻」の参加は命令ではなく志願という形がとられたが、これも特徴的なことである。命令には命令者の責任が伴う。統率の本筋と合致した行為である。しかし、志願には命令者は存在しない。したがって、責任の所在がはっきりしない。もし、責任が問われるとすれば、それは大西中将のようにみずからの心情にすべての責任を負うしかないのである。
昭和十九年十月二十五日、フィリッピンのクラーク基地から関行男大尉のひきいる「神風《しんぷう》特別攻撃隊」の「敷島隊」が進発した。「神風」の命名者は第一航空艦隊の先任参謀、猪口力平中佐である。以後「特攻」は陸続と発進した。
搭乗員の多くは、飛行服の上衣を脱ぎ、白いマフラーをはずして、「あとからくるものに使わせて下さい。われわれにはもう不用です」と置いていった。周囲はその心根を思って泣いた。関大尉らのように、ポケットから汗と油でくしゃくしゃになった札をとり出し、「これで飛行機をつくって下さい」と醵金《きよきん》するグループもあった。その金、二千円あまりが内地に届けられたとき、軍需大臣藤原銀次郎は「私にその一枚をいただかせて下さい」と、もみくしゃの一円札を両掌に受け、しばらくむせび泣いたという。
このような光景を見送りながら、大西中将は、あるとき猪口参謀にポツンとひとこと、いった。
「なあ先任参謀、特攻なんてものは、こりゃ、統率の外道《げどう》だよ」
司令官として過不足のない表現であったろう。しかし、大西はこの「統率の外道」をやめなかった。なぜか――。
戦場と司令長官と軍人と[#「戦場と司令長官と軍人と」はゴシック体]
私には、大西が特殊な三角形の中にいたからではないかと思われる。
三角形のひとつの頂点は「戦場」である。もうひとつの頂点は「司令長官」である。第三番目の頂点は「軍人」である。
制空権のない戦場に立つ大西
第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎
海軍中将・大西瀧治郎
彼は、この三つの立場を頂点とする三角形の中に身を置き、「特攻」が雲間に吸いこまれてゆくのを茫然と眺め、ときにはみずから新しい「特攻」の編成を手がけるのである。
戦場での大西に、二人の新聞記者があっている。ひとりは後藤基治(大毎)、もうひとりは戸川幸夫(東日)である。
後藤記者があったのは、何度目かの特攻機が上空に消えた直後である。大西の眼に光るものを見た後藤は「長官、特攻隊で戦況が挽回できるのですか?」とたずねた。すると大西は、後藤を見すえて「貴様、ちょっとこい」と、人気のない草原にすわらせた。叱られるのかと首をすくめる後藤に、大西は「比島の敵は食いとめられるかもしれんがな」といい、それから「戦の大局はだな……」と口の中で呟いて、やめた。
「じゃ、なぜ、特攻を続けるんですか?」
後藤が聞くと、大西は落ち着いた口調になっていた。
「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」
「それなら、なおさら特攻を出すのは疑問でしょう」
「まあ、待て。ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
戸川記者があったのは大西中将が比島から台湾へ転進してからである。台湾の基地からも続々と「特攻」が飛び立ち、大西自身が「特攻を出すことに狃《な》れてしまったのではないか」と、昏《くら》い眼をすることが多かった。そこを戸川がつかまえて、聞いた。
「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」
「負けない、ということだ」と大西は投げかえすように答えた。
「日本のこの危機を救いうる者は大臣でもなけりゃ、軍令部総長でも司令長官でもない。三十歳以下二十五歳までの、或いはそれ以下の若い人々で、この人たちの体当り精神とその実行、これが日本を救う原動力なのだ。作戦指導も政治もこの精神と実行に基礎を置かなくてはならぬ」
大西は戦場《ヽヽ》にいる人間として「この局面だけは食いとめられるかもしれぬ」と判断し、司令長官《ヽヽヽヽ》としては「瀬戸際に立たされた海軍」を感じ、中将《ヽヽ》としては「勝たないまでも負けない、それが日本を亡国から救う道である。そのためには特攻がどうしても必要なのだ」と、自分自身を説得しているのである。
それが無意味であるとわかっている行為でも、行動してみなければ存在そのものまで危うくなるような局面が、人生にも社会にも国家にもあるものだ。そういう局面をなんと名づけてよいか、私にはわからない。しかし、その無意味な行為の担当者は、ついに、永遠に名誉を回復できないということだけは、たしかである。担当者の心情は理解されても、行為の全体には容認を与えられないのである。
大西中将は、三角形の中をうろうろと歩き、三角形の頂点から頂点へと移動を続けている。戦後、外国の学者や新聞記者が「カミカゼの精神」について取材し、それぞれの見解を発表しているが、要するにこれを「日本の国民性の中に培われた東洋独得の思想」とすることでは一致している。古今の戦史の中で、死を客観にゆだねた行為は、後にも先にもこれしか類例がないのだから、日本人の国民性の中にその要因が問われるのは当然すぎるほど当然だとしても、行為の発想から体現までをひとつの光源で照らし出そうとするのは、いささか性急なアプローチではないかと思う。
「百年ののち、また知己なからんとす」[#「「百年ののち、また知己なからんとす」」はゴシック体]
台湾に基地を移したある日、大西中将は空気銃で鳥射ちに出かけながら、副官の門司親徳大尉にいうともなく、「やっぱり、わかってもらえないだろうな」と、つぶやいた。門司大尉は「特攻機のことだな」と思ったが、黙っていた。大西は、それから二、三歩あるき出すと、ひとり言《ごと》を夕空に投げた。
「わが声価は、棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」
微かな風が出て、草が光った。大西は小高い丘の上で足をとめ、蕭々《しようしよう》と走ってゆく風を見つめていた。足元の草も遠くの木も、きらきらと、風の光を投げあっていた。大西はその光の中に、子どものように寝ころんだ。それから、ごろりと身体を横転させた。一回転がすむと、またごろりと回転させ、そのままごろごろと横転しながら緩やかな斜面を降り切った。丘の裾まできて、大西中将は立ち上らなかった。草の上に俯伏せになり、草や土の匂いを嗅いでいるようであった。副官が近寄ると、彼は草の中に顔を埋めたまま、黙って片手をあげた。副官がその手をとってひきおこすと、大西は「どっこらしょ」といいながら、立ちあがった。
「さ、行こうか」
海軍中将は、衣服についた草の葉も払わずに歩き出した。門司大尉は、その足どりに大西のとぼとぼした心を読みとった。「指揮官の孤独」、そんな言葉が門司をつらぬいた。
私は、門司大尉から大西の「わが声価は、棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」という言葉を聞いたとき、歴史の一頁の重みを全身にひきうけ、黙って死んでいった男の、心情の軋《きし》みを聞く思いがした。特攻を編成する立場に立たされた軍人として、なにかに訴え、なにかを恨まんとする気持は、軍衣をつらぬいて噴き上げようとしたにちがいない。しかし、彼は訴えも恨みも、すべて彼一個の中に凝固させている。私が調べたかぎりでは、そうとうな期間と取材量になったにもかかわらず、ついに大西の「特攻」についての弁明は一片だに聞くことができなかった。大西は、黙って死んでいった。
大西中将の評価については、高木惣吉元海軍少将の愚将論≠はじめ、暴将≠ナあるとか、「要するに前線の司令官」であるとか、かならずしも高くはない。
私は大西を弁護しようとは思わない。いや、弁護しようにも、彼はまったく弁明の材料を残してゆかないのだから、手がかりがないのである。勇ましい檄文《げきぶん》だの、建白書だのがあれば、彼の立場や心境もわかるのだが、彼はただ、最初の特攻を発進させ、終戦の翌日の未明、自決するという事実しか残していないのである。言葉としては、ただ「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」である。
「特攻」は、あらためていうまでもなく、天をも恐れぬ暴挙である。大西も「統率の外道」と吐きすてるようにいっている。海軍部内にも反対はあった。
終戦時の総理大臣であった鈴木貫太郎大将は、死後発表された所感の中で、たとえ事情はどうあろうとも、生還の途を与えない攻撃方法はとるべきではなかった、特攻は遺憾であった、という意味のことをいっている。のちに紹介するように、歴戦のパイロットの中には、「あんな方法で乗員や飛行機を消耗されて、たまるものか」と、雑誌の座談会(昭和二十年三月)で公言するものもいたのである。
しかし、大西は「特攻」という暴挙をあえて行ない、海軍内で「愚将」とレッテルをはられたからこそ、ひとことも弁明しなかったのではないか。「暴挙」の責任をひとりで背負って、「愚将」のまま死んでいったのではないか。
自決の前夜、大西は矢次一夫の家を訪れている。あとで紹介するように「徹底抗戦」を叫んで万策つきたあとである。
矢次は、大西の顔を見ると「この男、死ぬ気だな」と直感した。
「君のような阿呆は、ここらで腹を切ろうなんて考えているだろうが、そんなことをすれば、慌て者だと笑われるだけだぜ」
矢次がぴしゃりというと、大西はぎらりと眼を光らせ、抑揚のない声でいった。
「腹を切ったら阿呆か」
しかし、つぎの瞬間、彼はどたんと立ち上ると、すごい力で矢次の身体にむしゃぶりついた。大西の、どっどっという身体の鼓動が矢次の身体を搏《う》った。
「貴様ぁ、泣いたことはないのかぁ」
それを叫ぶと、大西は声を放って泣いた。泣く、というより吠える状態に近かった。背中も脚もぶるぶるとふるわせ、全身から涙を放つ有様であった。
「よしよし、今夜はひとつ大いに飲もう。食いものは俺が用意するが、酒がない。君、持ってきてくれ」
矢次は大西の両腕に手をかけ、泣きじゃくる中将の、涙に光る顔をのぞきこんでいった。
「………」
大西は、頷《うなず》いただけであった。
夕刻、矢次は竹箒で玄関を掃いて大西を待った。風が落ちて、蜩《ひぐらし》が寂々《せきせき》と鳴いた。月見草は、蜩の声がわかるのであろうか、徐々に花の頭をもたげていった。大西は、月見草が好きな男であった。縁日で買ってきた鉢植えの月見草を庭に移植し、勤めから帰ると、庭下駄を突っかけて、黄色い花が殻を振りおとし、ゆっくりと小さな袖をひろげるのを見つめていた。
その光景の中を、大西は浴衣を着て下駄をはき、一升酒をぶら下げて、ふらりとあらわれた。すぐ、酒宴になった。
「いまだからいうがな」と、矢次は微醺《びくん》の中でいった。
「特攻を使って勝ったとしても、日本の名誉にはならなかったな」
矢次は、直接大西にいうよりも、海軍全体への批判をこめて、その言葉を口にした。昭和十九年七月八日、サイパンが陥落してアメリカ陸海軍の手に帰したとき、海軍報道部の栗原大佐が「これからは肉弾特攻しかありません」といったのを、矢次はとびあがる思いで、聞いている。矢次のような民間人が特攻という言葉を正式に聞いたのは、これが始めであった。
大西は、眼を伏せて、しばらく黙っていたが、持っていた盃を卓子の上におくと、さびしそうにいった。
「前途有為の青年をおおぜい死なせてしまった。俺のような奴は無間《むげん》地獄に堕《お》ちるべきだが、地獄の方で入れてはくれんだろうな」
矢次は話題をかえた。なんとかして大西の自殺を思いとどまらせようと考えた。そこで、金森徳次郎や矢部貞治らがつくった「敗戦後の日本想定」という文書をみせ、「これからのアジアは政治的難問が山積するぜ」といった。大西は、その文書にかなり慎重に眼をとおしたのち、
「このとおりなってくれれば、負けてもまあまあだな」
と、薄い笑いをうかべた。
そのあと、彼は急速に酔いの中に陥ちこんだ。副官を迎えにこさせるほどであった。八月の深い闇の中を、大西はくわえ煙草をしながら、あるいては笑い、笑ってはよろめきつつ、消えていった。闇の中で笑いながら、彼は嗚咽《おえつ》をこらえていたのかもしれない。
戦争の名人がいなくなった[#「戦争の名人がいなくなった」はゴシック体]
大西中将が、「特攻」を進発させる舞台に立たされたのは、昭和十九年十月二十日付で、第一航空艦隊司令長官に補せられたときである。内示はその月のはじめにあった。十月九日に、大西が勤務していた、軍需省航空兵器総局は、彼のために送別の宴を張っている。長官は陸軍の遠藤三郎中将、大西は総務局長で、自ら女房役を買って出ていた。かねてから「航空は小生の生命に候」といっていたように、彼は大正四年に海軍中尉として水上機母艦「若宮」に乗艦して以来、航空畑ばかり歩いてきた男である。独英にも留学し、みずから操縦|桿《かん》も握っている。それだけに、飛行機についての知識、航空戦についての見識にかけては、海軍部内で彼の右に出るものはいなかった。それに数多くのパイロットを育てており、歴戦の飛行機乗りから絶大の信望をあつめている。太平洋戦争が始まるまえ、源田実などは、「大西さんが連合艦隊司令長官になったら、戦争をはじめてもよろしゅうございます」と、冗談まじりではあるが、口にしたほどである。
その大西が、陸・海軍の対立抗争が続く軍需省の、ことに、航空兵器総局の椅子を占めたことは、恰好の人事であった。いや、この局を創設したのは、大西の進言が大きな原因とさえなっているのだ。それだけに大西は、陸軍から遠藤中将を迎えると、彼は遠藤より二歳も年上であったが、みずから局長に下がり、遠藤には申呼《しんこ》の礼をとっている。遠藤と大西は日支事変からの知りあいで、すくなくとも二人の間では呼吸が一致していた。
話が横道に外《そ》れたが、この大西を前線基地の司令長官に送りこんだのは、海軍軍令部内にそれなりのプログラムがあったからであろう。
遠藤三郎の話では、大西の比島転出は司令長官として親補≠ウれたのだから「栄転」の形をとっているが、じつは東条らの追い出しであるという。原因は彼の書いた「出師《すいし》の表」である。
昭和十九年六月、サイパンが危うくなったとき、軍内部に「放棄説」と「死守説」が対立した。大西らは「サイパンを放棄すれば日本の国防は成りたたない」と主張した。遠藤三郎は、武蔵と大和の巨艦をサイパンに乗り上げさせ、巨砲をひらいて米軍上陸部隊を叩き潰せと主張したほどである。
しかし、大本営の意思が「放棄」に傾いてゆくと、大西は参謀本部を飛びこえて、天皇に直訴しようとした。十九年六月二十五日のことであったと、遠藤三郎の日記は伝えている。が、この直訴は道を塞《ふさ》ぐものがあって実現しなかった。
大西が「サイパン死守」に拘泥《こうでい》したのは、航空母艦の保有隻数がすくなくなった以上、サイパン島は飛行基地として重要な価値を持つ。ここを拠点として航空戦力を駆使すれば、米太平洋艦隊の行動力はいちじるしく制限される、これが第一点である。しかし、より重要なことは、この価値判断はサイパン島が米軍の手におちた場合、まったく裏目に出ることである。それが、陸上航空基地というものの宿命である。サイパンの基地を米空軍が使い出したら最後、こんどは日本の連合艦隊が手も足も出なくなるのだ。
この判断のほかに、航空将軍・大西らしい配慮があった。
真珠湾攻撃以来、海軍航空部隊は歴戦のパイロットをつぎつぎに失っている。開戦当時は「太平洋戦争は名人がやるものだ。だから、名人が生きているうちにやめましょう」という声があったと、寺岡謹平元中将は話してくれたが、その名人≠熄コ和十九年に入ると、数えるほどしかいなくなった。パイロットの絶対的不足を補うために採用されたのが、学生出身の「海軍飛行予備学生」である。彼らはテンプラ≠ニよばれる訓練をうけた。テンプラとは「早くあがる」という意味である。この経過を表にしてみる。
昭和十九年の一月から十月までの十カ月間に、海軍は五千二百九名のパイロットを失っている。これは十九年初頭の全搭乗員数の四二パーセントにあたっている。
このため、未熟のパイロットを補充におくったが、これが未熟なるがゆえに、さらに損耗率を高めた。つまり、日本のパイロットの補給過程に悪循環がおこったのだ。「海軍飛行予備学生」はこの悪循環にリンクされた、黒い若桜≠ナあった。
学生の種類 短縮教程(カッコ内は正規)
練習 実用
飛行学生 5カ月(6カ月)5カ月(6カ月)
予備学生 4カ月(6カ月)4カ月(4カ月)
飛行練習生 4カ月(6カ月)4カ月(4カ月)
ごらんのように、予備学生と飛行練習生は、八カ月の訓練期間しか与えられていない。これでは、飛行時間はせいぜい飛んで二百時間であろう。地上の離着陸がまあまあで、空中戦はおろか、航空母艦からの発着はほとんど不可能である。だいいち、重油が不足してきて、発着訓練用に母艦を動かすなど、とてもできない状況にあるのだ。空母からの発進と着艦は、一流のパイロットでもむずかしいもので、平均四百時間以上の腕前にならないと安定しない。昭和十七年に採用された学生たちは、それでも空母の飛行甲板を利用するところまで上達したが、その訓練中だいぶ死者を出しているという飛行将校の証言もある。
勝者と敗者の原則[#「勝者と敗者の原則」はゴシック体]
このパイロットの練度不足を、私は、いま大西中将の「サイパン死守論」の根拠のひとつとして紹介しているが、じつはこれは「特攻」を発進させる、じつに大きなポイントになるのである。それをここで、大西中将の言葉として書いてしまおう。
「地上においておけばグラマンに叩かれる。空に舞いあがれば、なすところなく叩き落される。可哀想だよ。あまりにも可哀想だよ。若ものをして美しく死なしめる、それが特攻なのだ。美しい死を与える、これは大慈悲というものですよ」
しかし、この言葉はもう一度、昭和十九年末のフィリッピン戦場の中で、その状況とかみあわせて聞く必要がある。
大西の「サイパン死守論」は以上でわかるように「航空優先」の考え方から出ているが、これがいまだに武蔵・大和を擁する「大艦巨砲主義」の主流に通じなかったことは、いうまでもない。
かくなるうえはと、大西は島田海相が軍令部総長を兼任しているのを解き、「島田海相・末次総長・多田次官・大西次長」の人事表をつくって、島田の許に提出した。
遠藤がびっくりして思いとどまらせようとしたが、大西はきかなかった。遠藤は、大西に比島転出の命令が出たとき、とっさにこの「出師の表」を思い出した。
この遠藤説に対して、大西の栄転≠もうすこし戦略的にながめる見方がある。一口にいえば、大西の比島転出は「海軍が最後のエースをおくりこんだもの」という評価である。
内示があったとき、大西は義母にこういっている。
「ふだんなら忝《かたじ》けないほどの栄転だが、今日の時点では、陛下から三方《さんぼう》の上に九寸五分《あいくち》をのせて渡されたようなものだよ」
第一航空艦隊は、昭和十八年七月一日付で再編成された基地航空部隊である。司令長官は角田覚治中将で、大本営|直轄《ちよつかつ》として、内地で訓練に従事していたが、十九年四月一日付で連合艦隊に編入され、司令部をテニアンにおき、マリアナ、パラオ、トラック、ケンダリー、ダバオに、千六百四十四機を展開していた。主力は第六一、第六二の両航空戦隊、それに横須賀航空隊の教官教員で編成する「八幡部隊」の五十機である。
戦闘機 八八八
爆撃機 二八八
陸 攻 三一二
艦 攻 四八
偵察機 九六
輸送機 一二
これだけの陣容がととのっていれば、航空のエース、大西瀧治郎海軍中将を迎えるのにふさわしい舞台であったろう。
しかし、わずか半年の間に、一航艦は潰滅《かいめつ》したのである。まず、四月二十六日のビアク島争奪戦で六二航戦が潰滅した。戦史上「渾作戦」とよばれるものである。その潰滅の模様を、源田実が書いている。
「ビアク作戦のため、西カロリン、濠北方面に転進した航空部隊(六二航戦)は、その往復に際し、同方面の飛行場の不良と、ビアク方面数回の戦闘によって、約半数を失い、それに加えて基地施設不良のため、搭乗員の大部分がマラリヤに冒されてしまった」
それから二カ月後、グアム島東方海上に姿を見せた米機動部隊は、サイパン、テニアン両島に空襲と艦砲射撃をあびせ、この戦闘で第六一航空戦隊は壊滅してしまった。
八幡部隊も硫黄島で米機動部隊と交戦、かなりの米機を撃墜したが、味方の損害も多く、決戦兵力としての意味を失っている。
かくて、大西中将を迎えた「一航艦」の保有勢力はわずかに百機、そのうち戦闘機は第二〇一航空隊の三十機にすぎなかった。かつて、戦勢挽回の最大のホープと目された面影は、どこにもなかった。
第一航空艦隊潰滅の経過を素描したのは、ほかでもない。戦争における「勝者と敗者の原則」が、はっきりと露呈してきたからである。
第一は、彼我の航空機生産力の差である。このころすでに、アメリカは圧倒的優位に立っている。陸上基地はたしかに不沈空母≠ナあるが、量の差がある場合は、これは飛行機の墓場になる。日本の飛行機が空中戦をおえて補給のために着陸するとき、アメリカ側はその上空に待ち伏せ部隊をおいて、まるで両掌で蚊をつぶすように、疲れきった日本機を叩き落したのである。
第二は、空中戦闘法の開発のちがいだ。戦闘方法として、これまでのような一騎討ち型をあらため、かならず二機がペアとなって零戦一機にむかうという方法がとられた。日本の戦闘機は名人′|の伝統からぬけ切れない。生産力がすくなかったことにもよる。零戦の火器は、七・七ミリ二挺と二十ミリ二挺の四挺である。七・七ミリは一分間三百五十発、二十ミリは五十発である。これを囲むグラマンは、一機あたり十三ミリ機銃が六挺ついている。二機で十二挺である。しかも発射にリンク・システムがとられ、死角がでないようになっている。その火ぶすまの中に飛びこむ零戦の運命はいうまでもない。
第三は、パイロットの練度不足である。単独飛行がやっとという程度で戦地に送りこまれ、そこで三カ月ばかり訓練をうけたのだから、実戦に出す方が無理なのだ。だから、彗星《すいせい》のような優秀な飛行機がおくられてきても、それを乗りこなすパイロットがいなかった。ちなみに、真珠湾攻撃やマレー沖海戦など、初期の空中戦に出陣したパイロットは、すでに二千時間以上の経験をもっていたのだ。
第四は、ガソリンのオクタン価のちがいである。アメリカのオクタン価は一一〇、日本のはすでに七八に低下していた。これは飛行機が上昇するときに大きく影響してくる。猪口中佐の話では、グラマンはシューンという音を立てて上昇するが、零戦はバタンバタンといいながら昇る、という。「まるでクライスラーとオート三輪のちがいだった」そうである。そのうえ、整備能力のちがいが明瞭になった。
アメリカの整備には作業の標準化が行きわたっていた。昨日までホットドッグを焼いていた男でも、治工具をマニュアルどおりに動かせば、その場から整備員となることができた。たとえばエンジンのボルトの締めつけでも、ボルトが完全に締まらなければ工具がはずれないようにできている。日本のは名人芸≠ナあった。|締め味《ヽヽヽ》といったものが口伝で教えられている。だから、エンジンのボルト締めが甘く、せっかく出撃しても整備不良のため、編隊をはずれて引きかえす機が出てきた。
第五は、パイロットの環境のちがいである。とにかくマラリアが出るような施設に寝起きし、食事をしているのである。
空母を中心とする艦隊決戦は、システムの戦争である。彼我の航空機が遭遇する以前に、すでにシステムの優劣によって、勝敗がきまっているのだ。
有馬少将出撃す[#「有馬少将出撃す」はゴシック体]
以上のような「原則」が南太平洋を覆っていた。その中で、開戦以来二度目のZ旗が瀬戸内海に碇泊《ていはく》する連合艦隊旗艦「大淀」のアンテナから、全海軍に発令された。いわゆる「あ号作戦」の開始である。
「あ号作戦」は、参加兵力の数からすれば、太平洋戦争中最大の艦隊決戦であり、日本海軍が三十年来練りあげてきた対米作戦の総決算であった。
しかし、結果は惨敗に終った。勇将・小沢治三郎中将の乗る旗艦「大鳳」は、日本の艦船技術が粋をこらして進水させた新鋭空母であったが、わずか百日で南溟《なんめい》の藻屑《もくず》と化した。さすがに魚雷にはびくともしなかったが、雷撃のショックで軽油タンクからガスが洩れ、それが艦内に充満、一挙に引火して全艦火だるまとなった。飛行甲板がふくれあがり、艦は後尾から沈んでいった。このほか空母の沈没二隻。航空戦力は人員器材ともにほとんど潰滅した。
「あ号作戦」の失敗で、制空・制海の両権は完全に失われた。その結果、戦局のテンポは一段と早くなった。
七月六日、サイパン島玉砕。
八月一日、テニアン島眠る。
八月十日、グアム島応答せず。
九月十五日、ペリリュー、モロタイに米軍上陸。
第一航空艦隊は再建された。残存する飛行機二百四十九機をかきあつめ、フィリッピンのクラークを基地として、寺岡謹平中将が二代目の司令長官に就任した。
寺岡は「陣中日記」にこう書いている。
「惟《おも》ふに昭和十九年九月といふ月は、余の三十四年の海軍公生涯中最も傷心の月であった。然し余は愈々神経を太くして事態を正視し、此の内憂外患を乗り切って戦力の増強を謀り百折|倦《う》まず隊員に勇気をつけて飽くまで勝利への道に邁進《まいしん》する覚悟を新たにしたのである」
寺岡は大西と海兵が同期《セーム》である。海大も一緒に受験したが、大西にはのちに述べるように「芸者殴打事件」があって、寺岡だけ合格した。
彼の在任期間はわずか二カ月であったが、その耳に「特攻決行」の意見具申がしばしば達していた。が、「仁将」といわれた寺岡はその声を握り潰していた。
――中央からの命令が「艦隊決戦にそなえてできるだけ航空戦力の温存をはかれ」とある以上、敵の空襲から飛行機を退避させるのは当然ではないか……。
これが寺岡の統率の原理であった。つぎの「艦隊決戦」は「捷一号作戦」のはずであった。寺岡は時期≠待っていたともいえる。
これに対して、麾下《きか》の第二六航空戦隊司令官であった有馬正文少将は、業《ごう》を煮やす思いである。有馬はイギリスに留学して、英海軍の流儀を学んでいる。彼は進言を繰りかえした。
「見敵必戦こそ海軍の生命であり誇りではありませんか。長官、逃げてばかりいないで、戦いましょう」
有馬は進言したが、寺岡の唇からは「出撃」の声はでなかった。出るのは「待避」で、そのたびに味方の損害はふえてゆくのである。
ついに、有馬は重大なことを口にした。
「もはや特攻攻撃によるほか戦勢を挽回する方法はありません。いまなら士気が奮っているから可能です」
有馬がどの程度の規模で、なにを目標に特攻をかけようとしたかは不明である。ただ、彼の武士≠フ血がそういわせたようである。
十月十五日、台湾沖航空戦が火を噴いた。有馬少将は一番機に乗りこんで参加したが、乗機が被弾するや、空母めがけて一直線に突っ込んでいった。彼は、この日、階級章をはずし、双眼鏡の「司令官」という白い塗料の文字をナイフで削り、参謀や司令が必死でとめるのを振り切って乗りこんでいる。命令系統からいえば、将官が攻撃機に乗るのは司令官の命令があった場合である。しかし、この日、寺岡中将は陸軍部隊との打ちあわせのため、マニラに出向いて、留守であった。
有馬が煙をひきながら南溟に落ちてゆくとき、大西中将は寺岡中将と交替すべく、台湾まで飛来していた。彼は、秋の深い空をどす黒く染める戦闘を見ながら、
「内地にいたものだから、敵さん、戦争の講習をしてくれるわい」
と、切れ長の目を細めていた。このとき、彼の方寸に「特攻」のプログラムが収められていたかどうか、さだかではない。
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