特攻の思想
. . .    第 二 章    大艦巨砲主義の反対者[#「大艦巨砲主義の反対者」はゴシック体]  大西海軍中将は、第一航空艦隊司令長官としてフィリッピンに赴任するまえ、軍令部総長室に及川古志郎大将を訪れている。話は「特攻」についてであった。 「最早、特攻以外に勝機をつかむことはできない戦局かと思われますが、特攻発動の時期については、私にご一任下さいませんか」  この発言の意味を理解するのはきわめて困難である。いまだに、解釈がわかれている。大別すれば二通りになる。  第一は、大西の自負心によるものとの解釈である。  大西は「海軍航空隊育ての親」といわれるほどの飛行機通≠ナある。かつて、彼は「空軍独立論」をとなえ、「空威研究会」というのまでつくって、その席上で「海軍の帽章に錨《いかり》があるうちはダメだな、あれを飛行機かプロペロの図柄にしないといかんよ」と公言していた。太平洋戦争が始まってからも、彼は「日本海軍は日露戦争のときの連合艦隊思想と少しも変っておらんからな。あぶなくて見ておれんぜ」と、いってはばからなかった。周囲のものが「憲兵の耳にでも入ったらどうするのか」とたしなめると、大西は「すこしは真実の声が聞えてもよいだろう」と、改める風もないのである。  艦隊決戦から航空決戦の時代へ――それを読んでいたのは、山本五十六と大西瀧治郎であったというのが定説になっている。私は、いまさらこの定説を繰りかえす必要はないと思う。ただ、いかなる集団にあっても、既成の価値概念を新しい価値概念に置き換えることは、きわめて困難で、外部からの決定的因子が働くのを待つという状態が多いのではないかということを言い添えておきたい。  ひと口にいえば、大西は「大艦巨砲主義」の徹底的な反対者であった。  豊田貞次郎大将は海軍省から出向して日本製鉄の社長に収っていたことがある。社長というより、鉄鋼という戦争資材の統括者になったわけだ。  このとき、大西は海軍機関大佐であった足立助蔵を伴い、豊田に面会を申し込んでいる。足立の回想によると、大西は私服であったが、ヨレヨレのワイシャツを着て、裾のところがズボンからハミ出し、靴はほとんど磨いていなかった。彼は、服装と同様にぞんざいな言葉を豊田に投げつけた。 「あんた、いったい、ここでなにをしておるのかね。資材はみんな『武蔵』や『大和』にまわってしまって、飛行機の方にはすこしもこないじゃないですか」  豊田が「そうかね。どうなっておるのかな」と苦り切った顔になると、大西は、 「なにを考えておるんですか。私は、あんたに絶望しとるよ」  きめつけるようにいってから、足立の方を見て「足立大佐、資材部長の立場からすこし説明してあげなさい」と、命じたものである。  大西のこのような態度に対して、毀誉褒貶《きよほうへん》二つの評価が生まれたのは当然である。  私が取材した範囲では、特別攻撃隊の編成と出撃に対して、海軍のある高官は「あれは、結局、大西君の猿マス≠セったんだよ」と、声をひそめて語ったものである。猿に自慰を覚えさせると、興奮状態からぬけ切れず、倒れるまで続ける。大西の特攻≠ヘそれと同じようなもので、所詮は「戦場心理がうんだ異常事態であった」というのである。    及川は大西に賭けた[#「及川は大西に賭けた」はゴシック体]  さて、大西が及川軍令部総長に「特攻の時期の発動については私にご一任下さい」といったとき、及川は「君なら信頼できる」と答えている。「君なら信頼できる」というのは、大西の特攻発動の決意は全面的にみとめるということになるが、言葉のニュアンスとしては、特攻を出さなくても、それはそれで認める、ということになるだろう。  私は、及川も大西に賭けたのだ、と思いたい。なぜ、賭け≠ニいう言葉が必要かといえば、「特攻」という攻撃方法の性質が重大だからである。  後でまた述べるが、結論だけ先にいっておくと、及川と大西との間にかわされた特攻≠ニいう言葉は、個人の肉弾攻撃≠フ集積を意味するものではない。  有馬少将は、台湾沖航空戦に参加して、壮烈な最期をとげた。米国側の資料によれば、この戦闘中「日本の一機が正式空母フランクリンの三十メートル近くの海中に突入、その翼の一端が同艦の甲板に飛び散った」とある。  有馬少将の行為に代表されるような体当り≠フ例は、昭和十九年十月二十五日に「第一次|神風《しんぷう》特別攻撃隊」が発進するまえに、いくつも見られる。  愛機が被弾して帰投不能と判断し、空中で敵機に体当りを敢行して散華したもの。母艦を直掩《ちよくえん》中、敵の放った魚雷が突進してくるのを発見、そのまま機首を下げて魚雷に体当りしたパイロット、等々……。  これらの肉弾攻撃は、いずれも個人の決意によって行なわれている。ひとつの状況が生じ、それに対応する決意が生まれ、行動がおこされている。行動が個人の決意をヒキガネとして結実されるのだ。  しかし、「特攻」はちがう。個人の肉弾攻撃は「決意としての特攻」である。これに対して、及川と大西の間にやりとりされた特攻≠ヘ「制度としての特攻」「組織としての特攻」である。  航空艦隊司令長官は親補職である。大西を比島におくったのは豊田副武の人事であるといわれているが、実際はともあれ、司令長官の位置は天皇の人事≠ノなるのだ。したがって、その位置から発せられた命令は、動かしがたい。  この命令を受けたものは、そのときから死との対話をはじめなければならない。その対話を情熱の中に昇華させるか、諦念の中に沈潜せしめるか、あるいは最後まで生を主張してかえって対話の密度をあげるか、それは個人の精神の作業によるものだ。  その作業の結果を、われわれは戦没将兵の遺稿や手記で読むことができる。その精神の絶叫は、いまだに深い感銘をあたえずにはおかない。広島・長崎の原爆の記録と同様に、これらの手記は戦争への告発的価値をもつものであろう。一方、遺稿や手記を残さずに死んでいった若ものもある。  戦場が沖縄に移り、毎日のように鹿屋《かのや》から特攻機が出撃していたころ、突入寸前の特攻機からの無電に変化がおきたと、ある練達の海軍士官がいっている。 「祖国の悠久を信ず」「われ、敵艦に突入す」にまじって、「日本海軍のバカヤロ」「お母さん、サヨナラ」という電文がおくられてきた、というのだ。  われわれは、この電文の発信者を「祖国の悠久を信ず」の発信者とくらべて、非難したり低い価値観でみることはできない。 「制度化された特攻」の下では、個人の参加意志に濃淡が出るのは当然であり、だからこそ大西瀧治郎の苦悩も深かったわけであろう。短くいえば、「日本海軍のバカヤロ」という電文があったればこそ、われわれはもう一度、特攻の思想を検討する必要があるのではないか。「お母さん、サヨナラ」は、たしかに軍人らしくない。勇ましくない。凜々《りり》しくもない。しかし、勇ましく凜々しいものが、真実を伝えているとは限らない。  このようにみてくると、大西の及川に対する言葉は大西の自負心がいわせた≠ニいう解釈は、大西と特攻隊員との間に大きな溝をつくることになる。  第二の解釈は、サイパン陥落後に軍部内に澎湃《ほうはい》としておきた特攻思想≠、大西が一身でひきうけたのだ、とするものである。 「大西瀧治郎伝」の著者は「……いわば生れ出《い》ずべくして生れた飛行機特攻を、正式組織化し、計画化した産婆役に任じたと見るべきであろう。彼こそは最適の産婆役たり、類いなきすぐれた号令者であったのである」と書いている。  たしかに、彼は「最適の産婆役」であったかもしれないが、彼がその役をどのような判断からひきうけたのか、それが問題である。このポイントから、大西中将の特攻に対する心理的起伏を追ってみたい。    海大出身者にあらざれば[#「海大出身者にあらざれば」はゴシック体]  大西は、開戦当初から、軍の作戦指導には批判的であった。  柏原《かいばら》中学の同窓生である徳田富二がアメリカから交換船で帰ってきたのを祝って、ささやかな歓迎会をひらいたことがある。昭和十七年九月末のことだ。その席上で、徳田が「ところで大西、真珠湾攻撃はあれでよかったのか?」とたずねると、大西は大きな身体をゆすって、言下に「いかんのだなあ」と答えた。 「あれはまずかったんだよ。あんなことをしたために、アメリカ国民の意志を結集させてしまったんだ。それがいま、海戦にあらわれてきつつある」  徳田は、豪快な大西が深刻な口調になっているのにおどろいて、それはどういうわけだ、と重ねて訊いた。大西が答える。 「おれは、山本(五十六)さんから真珠湾攻撃の意見を求められたとき、ハワイは機密の保持がむずかしいことと、港が浅くて魚雷が使えないことの二点を挙げて反対した。やるんなら、太平洋で戦って、真先に空母を潰すべきだと意見具申した。しかし、山本さんは真珠湾を攻撃して、戦艦を叩いたんだ。山本さんの意見では日米両国民の間に戦艦に対する尊敬心があるから、戦艦を屠《ほふ》った場合の心理的効果が大きい、というんだ」  つぎに徳田が大西にあったのは、彼がインド洋方面に出かける矢先であった。彼は、少々うんざりした顔で旧友に語っている。 「なあ徳田、日本の海軍は日露戦争当時の連合艦隊思想から一歩も出ていないんだから、こりゃダメだよ。いまにわかるよ」  徳田が旧友の顔を見たのはこれが最後であった。大西がいわんとするところは、艦隊指導型≠ゥら航空指導型≠ノならなければ勝目がない、というにある。これはすぐにわかった。  大西が徳田に話したように、開戦に先立って、山本五十六は「真珠湾奇襲計画」の立案について大西に研究を依嘱《いしよく》した。その当時、大西は少将で第十一航空艦隊の参謀長の任にあった。この部隊は台湾にあって、比島攻撃の任務をもっている。  山本が特に大西の意見を求めたのは、彼が航空の専門家≠ナあったからだが、もうひとつ、山本らしい趣旨が加わっている。それを、山本は大西への手紙の中で書いている。文面は正確ではないが、 「貴官は海軍大学出身者にあらざれば、海大出のごとき型どほりの着想はいたすまじく、何卒、余人には相談することなく、自由勝手にお考へ下され度候」  と、だいたい、こういう趣旨であったという。  あえて海大出≠ナないことを評価したのは、いかにも山本五十六らしいが、私は山本は大西の海大受験の経緯を知っていて、彼の実力≠ひき出そうとしたのだと思う。  大西は、大胆にして細心、緻密《ちみつ》にして果敢という、飛行機乗り≠フ特性を絵に描いたような人物である。頭もよく、柏原中学から海軍兵学校に入ったときの成績は、百五十人中七番であった。  海軍大学の受験は三回まで許されていた。大西は二度失敗し、最後の一回を受けたときは、教育局第三課の課員で、横須賀で飛行機操縦の教官をしている。  海兵同期の寺岡謹平は二回目の受験のとき、大西といっしょになった。控室で待っていると、試験官が入ってきて「大西はおるか」と呼んだ。大西が起ち上ると、試験官は「貴様は、もう来んでもよい」と告げ、さっさと部屋を出ていった。    「海軍軍人、芸妓に乱暴」[#「「海軍軍人、芸妓に乱暴」」はゴシック体]  その二、三日まえ、大西は部下を連れて横須賀の料亭にあがったが、座敷によんだ芸者のうちぽん太≠ニいうのが、終始ふくれ面をしていたらしい。大西はそれを見咎《みとが》めて「芸者というものは座敷に出たら愛想よくするものだ。それが商売だぞ」と説教した。ところが、ぽん太はいよいよ不愉快な空気をつくる。たまりかねた大西が、「しっかりせい」とぽん太の頬を打った。日頃、浴びるほど飲んでも、芸者に手をかけるような男ではない。なにかの拍子であったのだが、ぽん太は憤然として席を立ち、市内にすむ兄に殴られたことを告げた。その男が渡世人であったからたまらない。新聞記者に妹が座敷で侮辱されたことを告げたため、「海軍軍人、料亭で芸妓に乱暴」といった調子の記事が、紙面をにぎわした。  あいにく、その新聞記事の出た日が大西の受験日にあたっている。それによって試験官は「受験資格なし」と判断したもののようである。  しかし、大西は海大失格をさほど気にもしていない。江田島の海兵で教官をしていた寺岡に宛てて「キサマハゴウカク、オレハダメ」という電報を打ち、つぎに顔をあわせたときはケロッとしていたという。  海軍大学を出なくても将官になったものに野村吉三郎などの例があるが、大西も海大卒の同期生と雁行したところをみると、やはり海軍の逸材とみなされていたのであろう。  さて、大西は山本から手紙をもらうと、第一航空艦隊の幕僚をしていた源田実を電報で呼びよせ、「おい、山本長官からこういう手紙が来た。貴様、ひとつ立案してみろ」といっている。  この山本→大西→源田の関係がおもしろいと思う。指揮系統からいえば、三人とも一本の糸ではつながっていない。それを無視してつぎからつぎへと意見を求めているのだ。  昭和十三年に、大西が「空威研究会」という私的ゼミナールをつくったとき、のちに源田もそれに参加して、航空機の攻撃効果を勉強しているが、その一テーマに「真珠湾攻撃の場合」というのがあった。源田の回想によると、水平爆撃の場合、高度三千メートルから爆弾をおとせば戦艦の装甲板をつらぬけることがわかったので、三千メートルがいいか四千メートルにすべきかの議論が行なわれていたという。  源田は、山本長官の手紙を読み、一週間かかって「計画書」を書きあげた。それによると、真珠湾の深さは十二メートルしかないので、低空から発射しても六十メートルもぐる魚雷は使える見込みがないとし、急降下爆撃を主体とした攻撃を何度も行なったうえ、若干の兵力をもって上陸作戦をすべきである、となっている。  大西は源田の案とは別に「計画書」をつくり、急降下爆撃と水平爆撃とを併用すべし、と書いた。  しかし、大西も源田も山本の「真珠湾攻撃計画」には不満であった。その要点は、飛行機による攻撃が片道攻撃であり、戦艦を狙って空母を落していることである。より積極的にいえば、大西たちは往復攻撃を何べんも繰りかえし、一年くらいは太平洋艦隊が西へ出ることを防ぎとめよう、というのである。  余談になるが、山本元帥の大西宛ての手紙は兵学校の参考館におさめられていたが、終戦時にさまざまな書類を校庭で焼いたとき、あやうく火の中に放りこまれそうになった。未亡人の話によると、そのとき徴用で来ていた教員が拾いあげ、記念にすると持ちかえったまま、行方が知れぬという。  さて、大西は開戦の結果を見て、やはり納得できないでいる。巷に号外の鈴の音と軍艦マーチが流れている中で、彼は飛行機が主力であるべきことを力説し、それがわからぬ海軍大臣以下首脳はことごとく無能で、海軍は錨のマークを下げているが、それはもはや過去のもので、鷲の印にでもしないと安心できぬと公言している。公言よりも罵倒に近かったともいう。これがついに岡軍務局長の耳に入り、大西は呼びつけられて、「えらそうなことをいっているが、爾今《じこん》、口を慎め」とひどく叱られたものだ。    海軍は空軍になるべし[#「海軍は空軍になるべし」はゴシック体]  話がやや長くなったが、以上が太平洋戦争の進み方と大西瀧治郎との距離である。もちろん、大西は批判者に終っただけではなく、実戦に参加している。  ハワイ奇襲と同時に、大西の属する第十一航空艦隊が比島に殴りこみをかけるとすれば、時差の関係から真暗闇であり不可能だ。闇が明けるのを待っていれば、ハワイのニュースは比島につたわり、米空軍は手ぐすねひいて待ちうけることになろう。事実、そのとおりであった。たいていの場合、真珠湾攻撃の時間をなんとかしてくれというものだが、大西は「戦局の中心はハワイだ。われわれは我慢しよう」といって、米空軍が待ちもうける中へ飛びこんでいった。しかし、幸いにも比島には霧が立ちこめ、彼我ともに行動をおこすことができない。米空軍は待てども待てども日本軍が来ないので、ちょっと気をぬいた。そのとき、霧が晴れ、その晴れ間から日の丸をつけた一式陸上攻撃機が殺到した。天佑《てんゆう》としかいえない。  翌十七年二月、大西少将は海軍航空本部の総務部に転任する。いわば凱旋将軍≠ナある。五月になって、「国策研究会」が彼の歓迎会をかねて、話をきく集いをもった。出席者は、朝野の名士二十数人と陸海軍の将星である。主賓である大西は、開会|劈頭《へきとう》、いきなり立ち上がると、明快な口調でいった。 「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの長≠ニ称するやつらは、単なる書類ブローカー≠ノすぎない。こういうやつらは、百害あって一利ない。すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから、戦艦は即刻叩きこわして、その材料で空軍をつくれ。海軍は空軍となるべきである」  それだけいってのけると、彼は悠然と腰をおろして、白け切った一座を見まわして、ニヤリと笑った。  大西は実戦に参加しながら、戦局の筋道に対しては、ある程度の距離を保っている。岡軍務局長に叱られてから、海軍罵倒論を表立ってこそ口にはしなかったが、飛行機中心のプログラムを変更することはなかった。  彼が、比島に出陣するに先立って、及川軍令部総長に「特攻の方法と時期はおまかせ下さい」といったのは、開戦以来、自分のプログラムをそのまま実行しおおせなかった男の、最後の賭け≠ニもみられるのである。ある種の距離感が、戦局に対する彼の眼を醒めたものにし、その醒めた一点に彼は特攻≠ニいう非常手段をかぶせようとしたのではないか。  戦局がすすむにつれて、大西は大本営発表では撃沈されているはずの戦艦や空母が健在なのを知ると、多田海軍航空技術|廠長《しようちよう》にたのんで、戦闘機による爆撃効果を測定してもらっている。  アメリカの空母の甲板と同じ厚さの鋼板をつくり、これに高度二百メートルから二百五十キロの爆弾を落した場合の実験がそれだ。もちろん、実際に爆弾を落すわけにはゆかないので、それに相当するスピードで模擬弾をぶつけてみる。この結果、爆弾が甲板を貫通するのは、三十度以上の角度であった場合で、それよりも浅い角度だとカスリ傷にもならないことがわかった。ところが、飛行機の方はどうかというと、急降下爆撃の場合、三十度以上の深い角度で突込んでゆくと、飛行機の軸と直角の方向に揚力が働き、飛行機は次第に前のめりになって、しまいには腹を上にむけてひっくりかえってしまうのだ。この事態を抑えながら三十度以上の角度で突込むためには、操縦の練度がそうとう高くないといけない。その練度が、開戦以来パイロットの消耗が続いている海軍航空隊にあるかどうか、それをいちばんよく知っているのは大西である。  また、この戦闘機に爆弾を抱かせるという着想は、空中戦の経験者からみると尋常のものではない。  戦術的にみれば攻撃隊は攻撃兵器であるが、航空機相互の戦闘という局面ではまったく受け身になり、消極的兵器になる。つまり、戦闘機に爆弾をつけて攻撃機にしてしまうことは、戦闘機としての性能をひき下げるなにものでもないのだ。  そして、爆弾をつけた戦闘機は必死の攻撃機≠ノなるわけである。そこに生還の可能性があるとすれば、操縦者の腕前と士気如何ということになる。  こういう尋常ではない発想がおきるほど、彼我の航空戦力には距《へだた》りが生じつつあったことも事実であった。    特攻を具申した男[#「特攻を具申した男」はゴシック体]  猪口力平と中島正は「神風特別攻撃隊の記録」の中で、つぎのように書いている。 「昭和十八年の暮れから十九年の初めにおけるラバウル時代、すでにわが航空兵力の劣勢を憂慮した海軍搭乗員の一部の間には体当り攻撃の思想が芽生えつつあったことを認めることができる。のちに桜花特攻機(体当り専門の特攻機)の発案者となった太田少尉もその一人であった」  この体当り攻撃≠ニいう言葉が「特別攻撃隊」という、一種の制度的な匂いをもつ言葉にかわったのは、昭和十九年七月のサイパン失陥の前後からである。 「大西瀧治郎伝」の著者が書くように「測り知れない深い歴史的な背景と、全作戦軍の澎湃《ほうはい》たる祖国愛、なかんずく、若き戦士達の不屈の闘魂」が産んだものとする考え方もある。  これらの「特攻」を望む声と大西中将との距離はどうであったか?  まず、「特攻」を望む声の代表として、城英一郎大佐と岡村基春大佐を紹介しておこう。  第三航空艦隊に属する「千代田」の艦長であった城英一郎大佐は、ラバウル空戦とサイパン沖海空戦での苦い経験から、彼我の戦力の差をつぶさに検討した結果、「もはや通常の戦法では敵空母を倒しえない。体当り攻撃を目的とする特別攻撃隊を編成し、小官をその指揮官としてもらいたい」と意見具申を行なっている。  城は、けっして豪将タイプ≠ナはない。外国駐在武官として経歴が永く、また侍従武官もしている。思考も行動も節度があってスマートである。その彼が「特別攻撃隊」を口にしたのは、戦力差の計算が鮮烈すぎたためであろう。それだけに、彼の提案はある種の重みをもって、聞くひとに迫ったのである。大西中将も、その一人であった。しかし、ここでは大西の気持を紹介するまえに、もうひとりの岡村基春大佐の提案を先に書いておこう。  岡村大佐は城大佐とちがって、生えぬきのパイロットである。源田実が小林淑人という不世出の名パイロットのもとで宙返りや背面飛行を習っているころ、岡村は分隊長として指揮をとっている。  館山航空隊司令であった岡村は、昭和十九年六月十五日、第二航空艦隊が編成されて福留繁中将が司令長官に就任するや、「尋常一様の戦闘方法では現下の航空兵力を生かす道はありません」と特攻≠口頭で具申している。  彼は、福留中将にばかりではなく、海軍部内を歩いては、めぼしい将官に同じことを繰りかえしている。もちろん、大西中将にも熱をこめて語っている。大西は、岡村を遠藤三郎陸軍中将にもひきあわせている。遠藤の「日記」は、岡村の存在とその背景を熱っぽく語っている。 「昭和十九年六月二十六日。午前、大西中将と国を救ふものは神兵の出現にあり。すなはち、若人らの身命を捨て、敵空母と刺し違へることにより、敵機動部隊を撃滅するほかに勝利の道なし≠ニ語りおりしに、午後二時頃、たまたま館山航空隊司令岡村基春大佐、舟木中佐これに任ぜんことを申し出きたる。ああ、神兵あらはる。胸迫るの思ひあり。自重をたのめり」  これだけでは、大西が岡村の意見に賛同していたかどうか、わからない。  だが、「大西瀧治郎伝」の著者は、岡村の提案は次第に同志を得て上申を重ね、大西の支持もあって当局の容《い》れるところとなり「かくて十九年十月、鹿島神宮の神《こう》の池《いけ》航空基地において、岡村大佐を司令とし、桜花隊の特攻訓練を開始することとなったのである」と書いている。    こうまで敵にやられては[#「こうまで敵にやられては」はゴシック体]  桜花隊特攻とは、七六二空の太田光男少尉が考え、小川太一郎工博が設計図を書いたもので、海軍の一式陸上攻撃機(一式陸攻)の胴体の下にグライダー爆弾を装着し、敵艦の上空まできて発進させるが、このグライダーには操縦者が一人乗って目標に間違いなく体当りするという特攻兵器である。しかも、このグライダーの原動機には四式一号火薬ロケットを採用している。  この桜花特攻機はマルダイ機とよばれ、第一海軍技術廠において、佐波次郎海軍少将の指揮のもとにかなりつくられた。そして、海軍軍令部と海軍航空本部とは、マルダイ部隊の編成に着手したが、その開隊準備の委員長に岡村基春大佐がえらばれ、発案者の太田少尉は母機の一式陸攻の機長を命じられている。  これが十月一日付のことである。大西が比島で特攻を決定したのは十月十八日で、敷島・大和・朝日・山桜の各隊の編成を終った旨、軍令部に打電したのは二十日の午前一時すぎである。  となると、大西が最初に特攻を決定するまえに、軍令部と航空本部は特攻という制度的自決≠決定したことになる。この決定に助言したのが大西中将だと「大西瀧治郎伝」の著者は書いている。  また、桑原虎雄元海軍中将も、私の質問に対して、「大西君は岡村大佐らの建策を支持し、島田軍令部総長(当時)に、ぜひとも採用しなさいと進言しておった。が、軍令部はなかなか採用しなかった」と答えている。  その軍令部が特攻≠採り上げたのは、七月二十一日、大本営が「捷号作戦」と名づける防禦作戦の根本方針をきめ、その作戦要綱に特攻兵器の考案、運用、特攻戦法などを指示したからである。  このように時間的経過を追ってみると、大西中将は特攻≠望む声と密着し、これを実現するのに力をかしたことになる。したがって、彼が比島に赴くまえ、及川軍令部総長に「特攻の時期と方法はまかせてくれ」といったのは、特攻についての明確な意識がいわせたことになるわけだ。  ちなみに、最初に「特攻」を言葉にした城大佐は、「千代田」艦長として小沢部隊に属し、十月二十五日、まさに正規の「神風特別攻撃隊」が発進した日に、レイテ島沖海戦で艦と運命を共にしている。  また、マルダイ部隊の司令になった岡村基春大佐は、鹿屋から桜花隊を沖縄にむけて発進させていたが、終戦の日に同地で自決をとげている。  大西を「特攻の創始者」とする見方は、彼が第一航空艦隊司令長官になる以前から、以上のような「声」の支持者であったという認識に支えられていよう。  とすれば、大西海軍中将は単純明快な豪将≠ノすぎない。  私は、こういう経過をたどってきて、ある人間の人物像≠ェ周辺の事実の集積でつくりあげられることに、われながら驚いている。この作業の過程では、|大西中将の肉声はほとんどはいってこない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  ところが、大西は城大佐の意見具申をきいたときの思いを、比島で猪口力平中佐(参謀)に語っている。  十月二十七日、つまり関大尉らの敷島隊が散華した翌々日、F6Fの編隊がはげしい銃撃をあびせてきた。鉄のスコールを思わせる銃弾の音をききながら、大西はひとりごとのように言葉を吐いた。 「内地におったとき、ラバウルから帰った城大佐が特攻を具申してきたが、わたし自身はそんなむごいことできるものか≠ニいう気持だったよ。しかし、ここ(比島)に着任して、こうまで敵にやられているのを見ると、やはり決心せざるをえなくなったなあ」  この大西の発言は微妙である。大西は比島に飛来するまで、特攻に踏み切っていなかったことになる。    迷妄の心象風景[#「迷妄の心象風景」はゴシック体]  奥宮正武元少佐も、大西の心境の変化を指摘するひとりである。当時、軍令部にいた奥宮少佐は「大西中将は東京を離れるまでは特攻≠使う気配さえ見せなかった」と語っている。 「それが比島にわたって一挙に結論を出したのは、おそらく半々であった気持が台湾沖航空戦や現地の有様を見ることによって、急速に特攻出撃の方に傾いたのではないか」  この猪口中佐と奥宮少佐の回想から浮んでくる大西瀧治郎の心象風景は、剛直なクロッキーで描かれた輪廓《りんかく》のつよいものではなく、むしろ迷妄の色彩がつよいのではないだろうか。  この迷妄は、大西と特攻との関係を測る、ひとつの鍵になる。  大本営が「捷号作戦」をきめ、その作戦要綱に特攻兵器や特攻戦法を書き入れたとき、それは防禦戦計画であると同時に、終戦のきっかけをつかむ一環としての意味をもっていた。  大西が、この情報から疎外されていたはずはない。前章にも書いたように、彼は東京日日新聞の戸川幸夫記者から「特攻によって日本は勝てるのですか?」ときかれたとき、「負けない、ということだ」と答えている。 「勝たないまでも負けない。それが日本を亡国から救う道である。そのためには特攻がどうしても必要なのだ」  誤解されることをおそれずにいえば、海軍中将としての大西にとって特攻は政治的手段のひとつであり、あるいはまた終戦後の日本をからくも支える哲学の母型になっている。  比島に派遣される前後の、大西の立場をすこし説明しておきたい。  十九年五月、サイパンがアメリカ機動部隊の射程距離に入ったとき、矢次が大西と話しあっている。  話すうちに、サイパンが満洲・中国・インドシナ・マレー・フィリッピンと結ぶ扇の要《かなめ》であり、ここを占領されたら咽喉に手がかかったも同然という認識が生まれた。 「だから、サイパン攻略戦をもって最後の戦闘とすべし。サイパンを守りながら和平工作を進めるべきだ」  矢次がいうと、大西は、 「そうだ。そのとおりだ。そこで、サイパンを守るには軍艦を浜辺に乗り上げさせて、敵を砲撃すべし。軍艦の巨砲が砲門をひらくと、二隻やそこらで、陸軍の八個師団に匹敵する火力になるんだ」  と力をこめていった。これは遠藤三郎中将の請売りであろう。だが、大西も信じていたらしい。彼は言葉をついで、 「しかし、先決問題として、戦う海軍省にしなければダメだな。いまの秀才官僚どもを追い出して、もっと度胸のあるやつを据えないと、事態は動かんな」  と、大きな眼を光らせていた。  大西は航空の先輩として特攻≠フ意見具申には耳を傾けていたが、一方、政治的配慮も欠かしていない。  そんな大西を海軍軍令部次長に推そうという動きがあった。次長は作戦の決定者であり、御前会議のメンバーにもなりうる。画策したのは、湯沢三千男、矢次一夫、それに国策研究会の面々である。「捷号作戦」の決定をみた翌日、七月二十二日、湯沢は就任したばかりの米内光政海軍大臣を訪ねた。米内は伊勢神宮に就任報告にゆく矢先であった。 「急な用事なんです。ひとつ、大臣の力で大西中将を軍令部次長に起用していただきたい」  湯沢がそういうと、米内は眠たそうな眼で見返しながら、 「俺は今から伊勢神宮に詣でる。神様に、サイパン陥落後、これからの指導はどうすればよいかを伺ってくる。俺が自信をもって帰ってきてから、そのうえで大西のことはきめる」  と、短く言葉を切った。  このあと、大西自身が米内邸に姿をあらわしている。彼は大きな巻紙と太い筆を持ってきた。それを米内の前にくるくるとひろげると、筆にたっぷりと墨をふくませ、 「海軍再建」  巻紙一杯に書いた。 「サイパン陥落で、海軍が眠りから醒《さ》める時期がきましたな。これで、海軍省が空軍省になるきっかけができた」  大西は、航空部隊の再建の方途を述べた。  米内はしまいまで黙って聞いていた。 「わかった。おまえ、次官をやれ」  米内がいうと、大西はすかさずいいかえした。 「いや、次官よりも次長(軍令部)にして下さい」  米内は「うん」と頷《うなず》いた。米内自身はこのとき大西を次長にしたかったのだと、矢次はいっている。しかし、海軍省内の大艦巨砲主義者が承知しなかった。その反対にあうと、米内は海軍的ずるさ≠発揮して、大西との約束を握り潰した。そうとは知らず、大西は米内とあったあと、矢次に告げた。めずらしく笑顔だった。 「米内さんは、おれの話がわかる人らしい」  矢次は、しかし、大西が次長になれないことを知っていた。大西の一年先輩の戸塚道太郎中将が、「あの男はな、省内にはいられない男なんだよ」というのを聞いていたのである。遠藤三郎中将によれば、大西が「サイパン死守」を唱えて「島田海相・末次総長・多田次官・大西次長」の出師《すいし》の表≠提出、これが省内の反感を買ったのであろうという。    「子守唄を歌って下さい」[#「「子守唄を歌って下さい」」はゴシック体]  大西は比島に転出を命じられ、和平工作からひとつ遠のいた位置に立たされた。が、それは和平工作からはずされたことを意味するのではなく、和平工作の条件づくり≠請負わされたともいえる。  大西は、出発に先立ち、海軍軍令部内を走りまわって、「特攻とはどのようにやるものか」を聞いている。  彼が岡村大佐や城大佐の意見具申を聞いたときとは状況がちがっている。日本は比島決戦≠ニいう天王山に立たされているのだ。  連合軍側は、サイパン占領後の攻略目標について、三案を討議していた。既定計画どおり、比島→台湾→本土の順で攻めるか。あるいは台湾を攻略するか。それとも日本本土攻略をふくむ新計画をたてるか。周知のように、マッカーサー大将が比島攻略を強力に主張した。比島にはアメリカ軍の将兵や市民が捕えられている、これを見殺しにするようなことがあっては、心理的な反動も招くし、アジア諸国民のアメリカに対する信頼心も失うであろう、というのが骨子である。  統合参謀本部は、マッカーサー案を採用、九月十五日にニミッツ、マッカーサー両大将に「十月二十日レイテ攻略」を指示した。 「比島攻略部隊」は、いっせいに紺青の海をすべりはじめる。戦闘艦艇百五十七隻、輸送船団四百二十隻、特務艦艇百五十七隻、上陸部隊二十万名。  比島が陥落すればつぎは台湾である。そうなれば、南方地域からの戦争資源はほとんど運べなくなる。  日本側は、一週おくれた九月二十二日、比島決戦の作戦準備を発令した。フィリッピン第十四軍を第十四方面軍に昇格し、軍司令官に山下|奉文《ともゆき》大将を任命した。山下がマニラに着任したのは十月六日のことである。  大西の壮行会は十月九日の夜、軍需省の一室でささやかに行なわれた。灯火管制で部屋は暗く、暗幕に限られたスポットの下にビールが並んでいた。  大西は遠藤に手をさしのべていった。 「ずいぶん頑張ってみたがなあ。もう飛行機もつくっていられないので、戦場へ行くよ」 「そうか、行くか……あんたには行ってもらいたくないんだがな」  遠藤が答えた。大西が航空戦力の専門家でありながら、航空機が底をついた戦場に出かけゆくことのあわれさが胸に来た。  宴がおわって、暗い部屋から出るとき、大西は足立技術大佐の顔を見ると、足を停めた。彼は、足立が胃潰瘍で苦しんでいるとき、浅草の裏町に鍼灸術の名人がいるのを見つけてきて、足立を連れていっている。そのときも、人なつこい顔をして、大西がいった。 「これからはな、あんまり上等な飛行機はいらんから、簡単なやつをちゃっちゃっとつくっておけよ」  足立は、その後、三重県の津に航空工廠をつくり、愛知時計にはエンジン、住友機械にはプロペラ、三菱重工には機体を発注して、ほんとうにごく簡単な飛行機を試作している。これが特攻用≠狙ったものであることはいうまでもない。  その夜、大西は帰宅すると、妻の母親に「最後のたのみになるかもしれませんが、今夜、子守唄を歌って下さい」とねだった。母親はやむをえず歌い出したが、嗚咽《おえつ》がこみ上げてきて歌にならない。中途から激しく泣き出した。  妻の淑恵が「私が歌ってあげましょうか」というと、大西は「ふん」と鼻先で笑い、「年下のものに子守唄なんか歌ってもらえるか」といった。それから「では、自分で歌うか」というと、寝床の上にドタリとひっくりかえって、※[#歌記号、unicode303d]坊やのお守りはどこへいった、を歌い出した。同じ歌を二度も三度も繰りかえしている。大西の歌は海軍の三音痴≠ニいわれるほどひどいもので、彼に歌い出されると、正しく歌っているものまで調子が狂ってくるという。  淑恵は、しかし、その夜の歌は妙に味わいがあったと述懐している。大西は「子守唄」を歌いおわると、こんどは「ばらの歌」をうたい出した。  小さい鉢の花ばらが  あなたの愛の露うけて  薄紅の花の色  昨日、始めて笑ったよ  節廻しはエール大学応援歌のそれである。歌いおわると、子どもにいうように「さ、もう寝ましょう。いつまでも起きていちゃいけません」とひとりごとをいい、寝巻に着かえて寝床に入ると、「うむ」と伸びをして、三秒としないうちに豪快なイビキをかきはじめた。淑恵は、まだふざけて狸寝入りをしているのかと思い、「あなた」と声をかけたが、イビキは崩れなかった。  翌朝、大西は遠藤中将に電話をかけ「これから行きます。あとをよろしく」と、それだけいった。遠藤が「ご武運を」というと「はい、ありがとう」と電話を切った。東京を発って福岡に着き、筥崎宮《はこざきぐう》で武運長久を祈って、鹿屋基地まで飛ぶ。そこで「沖縄大空襲」の無電が入った。大西は「支那大陸より発進せるB29の編隊」という電文を読むと「そんなことあるものか」といった。「これは大陸からではない。機動部隊の戦爆連合だよ」  大西のカンは当っていた。当ったのが不幸である。制空権は決定的に敵の手におちている。大西は鹿屋から上海に飛んで敵をかわし、上海で一泊すると、こんどは一気に台湾の高雄に入った。その彼の面前で、台湾沖航空戦が華やかに繰りひろげられたのは、彼が高雄から豊田副武連合艦隊司令長官のいる新竹に飛んだ直後である。  この航空戦の戦果確認のミスが「レイテ決戦」を左右しようとは、さすがの大西も気がつかなかった……。 [#改ページ]
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