特攻の思想
. . .    第 三 章    豊田大将との秘密会談[#「豊田大将との秘密会談」はゴシック体]  大西中将は、高雄につくとすぐ「豊田大将はどこかね?」と訊ねた。「新竹であります」と門司大尉が答えると「すぐにゆこう」といった。  高雄から新竹まで飛んだ。  新竹に着くとすぐ、連合艦隊司令部に豊田副武大将をたずねた。大西と豊田は一室に閉じこもって余人を避け、二人だけで永い間話しこんでいる。このときの会談の内容は、ついになにびとにも知らされていない。  推論によれば、大西は特攻機出撃≠フ必要を豊田に説いたというのだが、私はむしろ東京の海軍軍令部の特攻使用≠フ意向を伝えたのではないかと思う。いや、それ以上に、アメリカ統合参謀本部の「比島攻略」決定が日本の戦力におよぼす影響について話しあい、比島で死闘を展開することによって、当時ひそかに進められていた「和平工作」の成果を待とうと、そこまで話はいっていたのではないかと思われる。 「特攻発進」は当時の「機あれど機なし」という戦況の下で、現地の第一線将兵の間から澎湃《ほうはい》として起った思想である。「国敗れてなんの海軍ぞ」という思想もまた、「一機一艦」の戦果を集積しようという戦術の基盤になっていたであろう。それはそれとして事実である。    水平爆撃か特攻か[#「水平爆撃か特攻か」はゴシック体]  しかし、ここで区別しなければならないのは、特攻を主張し、これを敢行したのは「現地部隊」であるが、特攻を採用したのは「政治」であるということだ。  大西と豊田の会談が「特攻」に触れているとすれば、それは政治的効果にまで言及したにちがいないと、私は思う。  大西は、このあと、第二航空艦隊司令長官の福留繁中将にあって、またもや二人きりで、数時間も話しあっている。このときの内容は、福留中将によって、あきらかにされている。  それによると、  ――大西君と私は海兵の同期であったし、腹蔵なく話しあえた。大西君は一航艦の司令長官として特攻≠きめたあとなので、私の二航艦からも特攻≠出せと、しきりにすすめた。私のところは飛行機もあり、戦爆連合を組むことも可能だったので、「特攻」をことわり、水平爆撃で攻撃をかけると主張した。それでも大西君は、なかなか「そうか」といわなかった。いまが「特攻発進の時期だ」と強調してやまなかった……。  結局、二航艦からも特攻≠ェ出るのだが、これは福留のいう戦爆連合による水平爆撃がたいした戦果を挙げなかったのを見て、大西が「それみろ、だから特攻≠出せというのだ」と、つよくすすめたのが動機となっている。いや、そういうふうに福留中将は回想している。 「水平爆撃」か「特攻」かという問題提起をすると、まさに大西中将は暴将≠フ札をひくことになるのだ。しかし、「水平爆撃」が戦術であり、「特攻」が政治であるという視点から見直すと、大西像はもうすこしちがったものになるだろう。  大西像はとにかくとして、「特攻」は政治≠ナあったから、まさにそれだから、海軍飛行予備学生は「お母さん、これは犬死ではありません」と遺書に書けたのだ。彼らは、「特攻」の中心にある政治性≠、死に直面した人間の透明な眼で洞察している。その洞察が正しければ正しいほど、若い生命のいかばかり憾《うら》み多かりしかと、それがあわれでならぬ。  海軍少尉・安達卓也が書いている。安達少尉は、昭和二十年四月十三日、沖縄をとりまく米艦隊の真只中に突入していった。 「『あとに続くを信ず』とは、単に死を決して戦う者の続くことを信ずるのではなくして、特攻隊の犠牲において、祖国のよりよき前進を希求するものにほかならない。たとえ明哲な手腕の所有者ならずとも、いかなる悲境にも泰然として揺がず、しかも身を鴻毛《こうもう》の軽きに比して、潔癖な道義の上にのみ生き得る大人物の出現こそ、真に国を救うものだ。いかに特攻隊が続々と出現しても、中核をなす政府が空虚な存在となっては、亡国の運命は、晩《おそ》かれ早かれ到来するであろう」(「あゝ、同期の桜」より)    「こいつ、死んだよ」[#「「こいつ、死んだよ」」はゴシック体]  ここで陸軍の側から「特攻」を眺めてみたい。私自身が第三期特別操縦見習士官であり、私の同期生の半数以上が「特攻」となって沖縄で散華している。このことを知らせてくれたのは、富山県の教育委員会に勤める萩本孝であった。富山に講演にいった折、萩本元陸軍少尉は、宿に私を訪ねてきて、風呂敷包みから一枚の写真をとり出した。  学生服を脱いですぐ飛行服を着た若ものの顔が並んでいた。飛行教導学校の頃の一葉である。 「こいつ、死んだよ、沖縄で」 「特攻か?」 「うん。こいつも。こいつ、ホラ、同志社大学から来た、歌のうまいやつ、やっぱり沖縄だ」 「みんな沖縄だな」 「そう、みんな特攻だ。数えてみると半分は、もってゆかれたな」  萩本と私は、一枚の写真に頭をくっつけるようにして、視線をおとし、黙って見つめていた。若い見習士官の並ぶ背景は、鬱蒼とした夏木立である。朝は霧が流れ、起床ラッパよりも先にカッコウが鳴き出すのだった。 「こいつもいったのか、この国士舘大の、柔道のつよいやつ」 「そうらしい。なあ、草柳。この写真を眺めていると、いま、おれはどうしたらいいんだ、という気持になってくるんだよ」  薄暗い電灯の下で、萩本の眼は光っていた。彼は、剣士であるだけに、眼に光茫があったが、「いまおれはどうしたらいいんだ」という時の眼は、また一段と異様であった。こいつ、明日にでも出撃するのではないかという、妖《あや》しい錯覚にひきずられて、私はあわてて現実に戻った。 「おれは、いま、海軍の特攻隊を出したといわれている大西中将を中心に調べている」 「陸軍は、誰がきめたのか?」 「それがよくわからないんだ」  私は、取材の途中で、ある陸軍技術将校が「いまは、みんな口を噤《つぐ》んでいるが」といったのを憶《おも》い出した。しかし、萩本には告げなかった。告げてすむ問題ではなく、萩本や私の「おれはどうしたらいいんだ」という気持を埋めることもできない。次元がちがう問題だと思う。萩本は、写真を大切そうにしまってから、いった。 「そうか、海軍の方は、大西中将というひとがきめたのか」 「うん、特攻の創始者といわれている。しかし、おれはそういういい方に疑問をもっている。特攻はひとりの人間がきめられるものではない」 「そりゃそうだな」  陸軍航空技術研究所は、五百項目の研究テーマを抱えて発足した。昭和十一年のことである。研究の主力は、優秀な戦闘機づくりに注がれた。太平洋戦争の初期には、新機種が続々と誕生し、さかんにテストがおこなわれていた。ジャワ沖海戦の後から新しいテーマが登場した。  海軍はやがて艦船攻撃に手一杯になるであろう。陸軍航空隊がそれを引受けざるをえまい。「研究項目」に「艦船攻撃」を加えようではないか、という声が出た。 「飛行第七五戦隊」の竹下正寿陸軍少佐は、まず爆弾から変える必要があると隊員に話している。  日本の爆弾はイタリア式できれいな流線型に仕上っている。これだと、船の甲板に当ったとき、信管がはずれて黄色火薬がこぼれでるおそれがあった。  昭和十八年三月、陸軍航空技術研究所の「研究項目」に「艦船に対する爆弾の研究」が加えられた。序列は第二位であった。陸軍がこのテーマをいかに重視していたかがわかる。研究班の主任に水谷栄治郎中佐が就任した。水谷は軽爆出身のベテランで、新機種のテストパイロットとしては折紙付きである。  陸軍は海軍に共同研究≠申込み、艦爆や艦攻に乗せてもらって、艦船攻撃、ことに魚雷攻撃のやり方を教えてもらった。海軍の方は、陸軍の航空部隊からなにも教えてもらおうとしていない。    反跳爆撃法の猛練習[#「反跳爆撃法の猛練習」はゴシック体]  竹下少佐によると、この艦船攻撃の訓練中に、反跳《スキツプ》爆撃法《・ボミング》が考案され、浜名湖や真鶴海岸でさかんに練習されたという。これは「第一次神風特別攻撃隊」の母体となった「二〇一空戦闘機隊」が、特攻発進のひと月まえに、セブ島の基地で練習していたのと、まったく同じ方法である。  反跳爆撃法というのは、ちょうど子どもが池や川に石を投げて、水面を切りながら跳ねさせるのと同じで、投下した爆弾をいったん海面に叩きつけ、その反動で空中にとばして敵艦に命中させる方法である。  陸軍の場合だと、亜成層圏から敵目標に接近し、彼我の距離千メートルあたりから一気に急降下して、海面三メートル(軽爆の場合。重爆だと十メートル〜二十メートル)で機を水平にたもち、爆弾をスキップさせる。このときの艦船までの距離は二百メートル、時間にして二十秒だ。だから、スキップするや、すぐ機首をあげてマストすれすれに離脱する必要がある。  この訓練は、最初、横浜港内の船にむけて行なわれたが、危険を伴うので、浜名湖と真鶴海岸に移された。真鶴海岸がえらばれたのは、そこに三つ石≠ニいう岩礁が海の中に突き出し、その恰好が軍艦そっくりであったからだ。  昭和十九年五月、この爆撃方法をほぼ完成した竹下少佐らは、貴重な資料を抱えて、陸軍参謀本部と同航空本部に報告にいった。若葉の美しい日であったと、竹下少佐は記憶している。  その述懐があるのは、ときすでに陸軍航空部隊の中に「体当り攻撃」の思想が芽生え、具体的な方法論が日程に上っていたからである。反跳爆撃がうまくゆけば、体当り攻撃≠フ実行を先制しうる。その思いが、竹下少佐に若葉の燿《かがや》きを感じさせたわけだ。  この反跳爆撃には、しかし、爆弾の構造的な問題があった。攻撃機は、要するに敵艦の甲板よりも低い高度で進入し、爆弾を海面に叩きつけねばならない。その際、速度は五百キロを必要とした。このスピードから爆弾を叩きつけないと、反跳しないで海中に潜ってしまうのである。  ところが、この叩きつける力が強すぎて、従来の爆弾では尾の部分が曲ってしまい、あらぬ方向へ飛んでゆく。そこで「航空技研」では、弾尾の研究と信管の改良に大汗を流し、十九年春にそれを完成している。  参謀本部は、竹下少佐らの意見を入れ、戦闘・軽爆・重爆の戦隊から優秀なパイロットをひきぬいて、スキップ爆撃隊≠編成、特訓に入った。  しかし、このスキップ爆撃法は、アメリカ空軍が一年まえに実用化していた。昭和十八年三月のビスマルク海戦で、日本側はこの奇妙な攻撃法にかなり悩まされているのだ。その状況を、竹下少佐はアメリカの雑誌記事で読んでいる。「先を越されたな」と思った。が、この方法を開発することは、「体当り」という切札に指がかかる瞬間をひきのばせるはずであった。  おもしろいことに、猪口力平・中島正共著の「神風特別攻撃隊の記録」にも、この反跳爆撃法がでてくるが、両氏は「反跳爆撃は空戦と違って割合に簡単だから、その技量よりもむしろ精神が大切で、敵との距離や投下高度の判定を誤らない沈着ささえあれば、まず成果をあげうるものと期待できた」としながらも「この爆撃法はやり方がやり方なので、一〇〇中の九九は自爆となり、生還は至難と予想された」と、評価している(その理由については後に述べる)。しかし、二〇一空の搭乗員は「生還至難」を覚悟のうえで、反跳爆撃隊を志願した。この期に及んでは、目前に迫った敵機動部隊の撃破以外に救いはないとの判断である。  問題はこれからである。猪口・中島両氏はここまで書いてきて、つぎのように結んでいる。 「しかし、こうした戦闘機搭乗員をはじめ基地全員の強い決意と努力にもかかわらず、反跳爆撃法は実戦にはついに用いられなかった。というのは、その具体化の前にダバオ事件が起きて、機数の不足をきたし、特別攻撃法の採用を招来するに至ったからである」    完全な「殺人機」[#「完全な「殺人機」」はゴシック体] 「ダバオ事件」については後で紹介したい。一口にいえば、見張兵が海面の白波を水陸両用戦車と誤認、このため比島根拠地隊から一航艦までテンヤワンヤの幻の敗走≠現出した事件である。  その「富士川の水鳥の羽音におどろく平家のさま」はとにかく、この混乱時に「二〇一空」は虎の子≠フ百機のうち六十機余を撃破され、兵力わずか三十機となってしまったのである。  大西中将が寺岡中将の後任としてマニラに降り立ったのは、まさにこのような状況の下であった。  猪口・中島両氏は、読んでわかるように、「反跳爆撃法」と「特攻」とを同一線上にはおいていない。「機数不足」という条件を「特攻」への踏み台として使っている。  陸軍の内部でも、「特攻」という概念は、正否の議論の交叉点にあった。  昭和十九年七月七日、真夏の光の中を、陸軍省にほど近い民間人の邸宅に、黙々と吸いこまれてゆく人影があった。これが、秘密裡に「特攻発進」を協議した、陸軍の「市ヶ谷会議」とよばれるものである。  寺本中将、隈部少将、水谷大佐、酒井少佐、それに竹下少佐など、陸軍参謀本部、同航空本部、航空技術審査部、それに実戦部隊から、指名されたものが顔を並べた。  サイパン失陥の戦況が航空関係者の心理を居たたまれぬものにしていた。そのうえ、海軍の健闘と惨敗が、陸軍をかなりムキにさせたともいえる。  陸軍でもこれまでに体当り≠ヘあった。敵機に体当りして撃墜したり、戦車群の中に突入したりしている。しかし、それらは海軍の体当り°@と同様に、偶発的であり玉砕をえらぶという姿であった。つまり、「制度としての特攻」ではなかった。 「市ヶ谷会議」の席上、突如として、陸軍航空本部の代表から「生還を期さない体当り機の研究を始めてもらいたい」と発言があった。 「それは無茶です」と、酒井少佐や竹下少佐が反対した。「艦船攻撃ならばほかに方法がありますよ」 「いや、体当り機の搭乗員には志願制≠とるんだ。そのかわり、絶対にぶつかるしか方法のない飛行機をつくってくれ」  結局、参謀本部と航空本部がもち出したのは「いったん離陸したら、二度と着陸できないような信管をつくれ」であった。  これは、いかに志願制≠とるとはいえ、完全な「殺人機」である。海軍の「特攻機」も、末期には「桜花」のような人間グライダーが開発されたが、それでも敵がいなければ一旦は帰還できる。「神風特攻隊」のタイプは、零戦が二百五十キロの爆弾を抱えたものであって、これは機体の故障が原因でも帰投できる。  しかし、「市ヶ谷会議」の発想は、飛行機そのものを必殺機≠ノして、体当り≠完結させようとするにある。  反跳爆撃の訓練のベテランであった岩本少佐は、中途で南方前線におくられたが、帰還命令が出て帰ってみると、「特攻隊隊長」に任ぜられ、この殺人機≠ノ乗りこむことになった。その岩本を愛知県|各務原《かがみはら》の陸軍特攻基地に竹下少佐がたずねた。  竹下は「あまりにも残酷な飛行機」に腹を立て、懸架された爆弾の風車をちょっとかえれば、着陸しても爆発しないと、ひそかに教えたのだ。この、殺人機≠ノ乗っても万一の場合は帰還できる方法は、「何度も出撃して徹頭徹尾戦うのこそ、軍人ではないか」という思想に支えられて、一部の特攻隊員にはゆきわたったという。    悪魔の頭脳≠ェ考えた[#「悪魔の頭脳≠ェ考えた」はゴシック体]  ところが、航空技術本部は、さらに徹底した殺人機≠開発した。それは、離陸してから機内の綱をひくと、両車輪が落ちて、二度と着陸できぬ仕掛けのものだった。  このような開発を支えていたのは、海軍の特攻隊発進のたびにエスカレートする、陸軍部内の「体当り常道論」であったといわれている。もちろん、「特攻は統率の外道」という思想から「体当り常道論」に反対する意見はあったろうが、特攻機そのものの非人道性は蔽《おお》うべくもないのだ。当時の軍指導者たちは「特攻は志願制であった」と強弁するが、志願制は統率の責任の消滅を意味するし、だいいち、志願しなかった場合に受ける制裁の凄さは、高木俊朗氏がしばしば記述しているとおりである。  私は、いまさら「体当り常道論者」を探し出して、その責任を問うつもりはない。そんな意味でこの文章を書いているのでもない。ただ、問題は、いったん「体当り常道」という心境の壁を乗りこえてしまうと、こんどは科学技術を駆使して、手段を肥大させる属性が人間にあることを指摘したいのだ。  これは「体当り常道論」と「殺人機」の関係ばかりではなく、平和な社会の中でも、たとえば「経済的発展」と「環境破壊」という姿になってあらわれるのではないかと思う。人間という原点を超えた価値に優位性をあたえると、人間は人間を破壊するための手段を見事な明快さと素晴しいスピードで開発してゆくのではないか。その恐怖の原型を、陸軍航空本部内の思想と特攻機との関係に焼き付けて見ることができる。  升本清がその著書「燃ゆる成層圏」で述懐している反省は、同時に「市ヶ谷会議」がいかに悪魔の頭脳≠ノ充ちていたかを物語っている。 「私は一般の爆撃機を特攻機に改修する場合、無線装置だけ残し、他の一切の装備品を取りはずして、重爆では二トン、軽爆では一トンの爆弾を装置できること、その際の全備重量、飛行場設備に関係のある離陸滑走距離および|片道の《ヽヽヽ》航続距離の計算値を説明した。技術者の一人として新兵器の説明をするならば名誉でもあるが、このような計算をして、こんな場所で発表せねばならぬ自分の無能を大いに恥じた」 「軽爆では一トン」である。零戦特攻は二百五十キロ爆弾だから四機ぶんに相当する。体当り≠フ規模がエスカレートしているのだ。  一方、竹下・岩本両少佐のスキップ爆撃法≠ヘどうだったか。竹下少佐によると、「かなり練度はあがったが、レイテ島戦がはじまったので沙汰止みになった」という。  さて、そのレイテ島戦は重大な誤認の下に開始された、のである。この「誤認」からひき出された作戦の糸の上を、大西瀧治郎は黙々と、しかし、苦《にが》り切って歩いていたのではないかと思われる。    幻の台湾沖大戦果[#「幻の台湾沖大戦果」はゴシック体]  昭和十九年十月二十日、大本営は「レイテ湾に来攻した敵主力に対し、空、海のみならず地上軍をも指向し、ここに国軍の総決戦を求める」との方針を打ち出した。これは、明らかに、それまでの「地上決戦はルソン島」という方針の変更であった。  大本営が「ルソン島決戦」を堅持していたのは、空、海ともにアメリカ機動部隊の制圧下にあっては、比島全土に随時随所に兵を動かすことは困難だから、よしんば米軍が比島の中、南部に上陸しても、決戦はあくまで北部のルソン島でと考えていたのである。  つまり「ルソン島決戦」は彼我の海上機動力の差が前提になっていた。それが「レイテ島」に変更されたのは、その前提が崩れたからである。簡単にいえば「アメリカ機動部隊は海底艦隊≠ノなった」という認識、というより誤認が基になっている。  その誤認をつくったのが、十月十二日から五日にわたる、台湾沖航空戦であった。大西中将は、この航空戦のため、新竹の防空壕で三日間をついやしている。その間に、彼は豊田副武連合艦隊司令長官と終日しゃべり続けたのであった。  十月十九日夜六時、大本営は「我部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及びルソン島%剣面の敵機動部隊を猛攻し、其の過半の兵力を壊滅して之《これ》を潰走《かいそう》せしめたり」と発表、「我方の収めたる戦果」をつぎのように並べてみせた。しかし、それは実際とはあまりにもかけ離れていた。   艦種  轟撃沈 撃破 実際  空母    11  8  0  戦艦    2  2  0  巡洋艦   3  4  2  艦種不詳  0  13  0  巡又は駆  1  1  0  合計すると、轟撃沈が十七隻、撃破が二十八隻になる。これでは「アメリカ機動部隊は海底艦隊≠ノなった」と思うのも無理はない。ことに空母は撃沈・撃破で十九隻なのだ。しかし、キング元帥報告書にもあるように、「敵航空機のきわめて巧妙なる攻撃」によって巡洋艦二隻が損傷を負ったのみである。しかもその二隻は、飛行機に護衛されて無事に基地に帰投したのだ。  富永謙吾によると、海軍部は戦果がどうもあやしいと気がつき、十七日ごろ、東京に連合艦隊や攻撃部隊の関係者をあつめて、再調査を行なっている。その結果、「どう有利に見ても、航空母艦四隻を撃破した程度で、撃沈艦は一隻もなし」とつかんだ。この程度の認識なら救われるのだが、ところが、どういう事情からか、この数字は陸軍部には通報されなかった。  もし、通報されていれば、敵機動部隊はいまだに健全、したがって「ルソン島決戦」の方針は変更されなかったのであろう。  ところが、陸軍部は台湾沖の赫々《かつかく》たる大戦果≠信じこんでいた。二十一日には勅語さえ下されたのだ。  この誤認の下に「ルソン島決戦」は「レイテ決戦」にかわり、参謀次長、作戦課長、作戦主任参謀がこの重大変更を告げるべく、東京からマニラに飛んだ。  これを迎えに出た比島方面軍司令官山下奉文陸軍大将は、作戦変更をガンとしてハネのけた。富永は山下の言葉をつぎのように伝えている。 「台湾沖航空戦の成果がどうであろうと、敵がいま比島の一角に来攻したのは、今までの敵の堅実なやり方から判断して、兵力と準備に確信あってのこと、こちらは何の準備もしていないレイテに、突如大兵力を差し向けても、予期する戦果は収め得ない」  山下大将の判断は正しかった。が、幻の戦果に踊った大本営参謀と南方軍は、「レイテ決戦」で押し切った。    最後のZ旗[#「最後のZ旗」はゴシック体] 「誤認」から作戦の糸が吐き出された。連合艦隊は、航空兵力の不足を承知の上で、敵の上陸地点を叩くため、行動を開始した。  太平洋戦争史上、三たびZ旗が上った。そして、これが日本海軍最後のZ旗であった。  これは「台湾沖航空戦」の戦果を知っている海軍としては、解《げ》せぬ行動ではあるが、豊田司令長官の胸中には無為にして自滅するよりは、大戦艦武蔵以下の海軍の主力に花を咲かしめようという思いがあったのであろう。また、戦略上からいっても、武蔵以下がリンガエン湾に突入して、巨砲の火を吐けば、米軍はぬきさしならぬ損害を蒙るはずである。問題は、しかし、航空機の護衛なしにその作戦行動が可能かどうかである。  大本営参謀の種村佐孝陸軍少佐は、その「機密日記」につぎのように書いている。 「十九年十月十九日 比島決戦の発動に伴ひ海軍は連合艦隊の出撃作戦を企図し、これに要するタンカー六隻の徴傭《ちようよう》を申し出て来た。現在石油節約のため、昭南島(シンガポール)附近に集結訓練してゐる連合艦隊を、レイテ決戦正面に裸で出撃させようといふのである(中略)。木更津にゐた連合艦隊司令長官豊田大将は、マニラまで出かけて戦闘指揮するといふけれども、放り出される艦隊の運命たるや気の毒なものだ。坐して飛行機の好餌となるよりは、死地に投じて死花を咲かせようといふ、やぶれかぶれの決戦思想であった。タンカー徴傭に反対すれば、連合艦隊の出撃が阻止されるのであれば、陸軍は飽くまでタンカー徴傭に反対しようといふ強い意見が省部の間に起ってきたが、第一部としては、この海軍の作戦に真向から反対することは、従来の立場上出来ないといふので、ウヤムヤで海軍のなすままにまかせるより外はない状態であった」  海軍は陸軍への「戦果通報」を忘れ、陸軍は海軍の艦隊特攻≠ひややかに見送っている。大本営の中は重大決戦≠口にしながら、官僚化がはじまり、これが混乱に輪をかけていた。  大西は、生来、官僚的な匂いを好まぬ男である。だいいち、軍服を着たがらない。  郷里の青垣町に足立鶴松という床屋がいるが、大西はいつもヨレヨレの浴衣を着て、「やってくれ」と入ってくる。髪を刈っているうちに、眼と鼻の大きな風貌に気がついて「大西閣下ですか?」ときくと、うるさそうに「ウ、アア」と返事をするのだった。  彼は甥の憲三をかわいがっていたが、その憲三も大西の軍服姿をあまり見たことがない。昭和十五年十一月二十三日、大西は帰郷するにあたって、宝塚にいた憲三に電報を打ち、そこからおれの乗っている汽車に乗ってこいといった。  憲三がその汽車を待ちかねて飛び乗り、車中を往復して探したが、海軍大佐の服装はついに見かけなかった。もう一度探すと、顔にかけた新聞紙から大きな耳をはみ出させて、正体もなく寝入っている男がいる。背広姿だったが、それが大西であった。  この男のエピソードを聞くたびに、それが誰によって語られていても、いつも規格からハミ出している人間を思わせるから不思議だ。本人は豪快ぶったり、眼を剥いて武人らしく装ったりしないのだが、普通にやることが規格からハミ出しているのである。    参謀長ならぬ乱暴長[#「参謀長ならぬ乱暴長」はゴシック体]  海軍中尉のとき水上機の練習をしていて、海中に墜落した。幸い、飛行機にはフロートがついていて沈没しなかった。ひと晩じゅう漂流しているところへ、「霧島」が救助にいった。艦長は高橋三吉(のちの海軍大将)である。びしょ濡れの中尉に「大丈夫か?」と訊ねた。すると大西中尉は股間をおさえ「どうも病気をしておりますので海水がしみて困ります」といい放った。これには高橋艦長がびっくりして、すぐ軍医のところにつれていったという話がある。  このような性格の野放図さは、尉官から将官まで一貫して、あらわれるのである。  軍需省の航空兵器総局におくりこまれたとき、海軍側は「大西なら陸軍にヒケはとるまい」との魂胆があった。陸軍側も遠藤三郎中将を同じような狙いで送りこんでいる。ところが、大西は長官の椅子をさっさと遠藤にゆずり、自分は下位の総務局長になって、「遠藤さん、航空機の配分ですがね」と口火を切った。  当時の物資動員計画局長は椎名悦三郎である。陸海軍がことごとく対立するので、航空器材は軍が九五%、民間が五%とわけ、軍のぶんは陸海軍の話しあいにまかせている。 「遠藤さん、あなたがいいように配分して下さいよ。海軍のバカドモは、海軍の飛行機をたくさんつくってくれれば海軍はやる、なんていっているが、海軍だろうと陸軍だろうと空は空ですよ。半々でいいじゃないですか。海軍大臣が率いるのを第一航空部隊……」 「陸軍のを第二航空部隊としますか」 「それでいいハズです」  遠藤は、この考えに同意し、文書に書いて陸軍部内にバラまいた。早速、東条首相によびつけられて「余計な意見をいうな」と叱られた。癪にさわって富永次官や秦彦三郎参謀次長に噛みつきにゆくと、秦が、 「君はああいう文書を、敵側《ヽヽ》に出すとはなにごとか」  と、怒ったそうだ。そこで遠藤は「君はアメリカと戦争しているのか、日本の海軍と戦っているのか」と尋ねたというが、それほどひどい対立だったわけである。ところが、大西は陸軍がどうの海軍がどうのと、一度も口にしたことがない。  ただ、意見が対立すると、すぐ腕力におよんだという話が、いくつでも残っている。それで参謀長になると「あれは参謀長ではなく乱暴長だ」といわれ、ふだんは「喧嘩瀧兵衛」と綽名される始末であった。  その喧嘩の経緯がおもしろい。たとえば山口多聞との乱闘である。  昭和十五年、重慶に入った蒋介石軍に対して、第一、第二、および南支連合航空隊が合同して、一挙に攻撃をかけようということになった。  各航空隊の司令官が山口、大西、寺岡謹平である。それに左近直允という特務機関長が加わった。いずれも海兵同期の少将である。左近は太平洋戦争中に第十七戦隊司令官になり、戦後、オーストラリアの捕虜虐待の罪を問われて、香港で刑死している。  四人は漢口にあつまり、曙荘というクラブで飲んでいたが、先任の山口多聞が中央からの指令を受けている関係で、「重慶爆撃は各国大使館もあることだし、慎重にやらないといかんぜ」と念を押した。これが大西の癇にさわった。 「なにをいうか」と大きな眼を光らせた。 「日本はいま戦争をしているんだ。イギリスだってヨーロッパで敗けかかっているじゃないか。アメリカも戦争に文句はあるまい、絨毯《じゆうたん》爆撃で結構だ」 「大西、馬鹿なことをいうんじゃない」 「ふん、へっぴり腰。だいいち、貴様のところのあの飛行機はなんだ。古くてガタガタじゃないか」  ここで山口が盃を投げつけ、徳利をつかんで大西に打ちかかる。寺岡や左近がとめようとする間もあらばこそ、二人は組んずほぐれつの大喧嘩になったという。  それからまた和解して飲み直したが、山口が「おれも徹底的に叩きたいんだが、中央が重慶は慎重にやれ、というんだ」と告白すると、大西は一言、「それが戦争だよな、山口」といって、ひっきりなしに盃を干していたという。    三分の一に減った戦闘機[#「三分の一に減った戦闘機」はゴシック体]  大西の判断に見られるものは、一見して雑駁《ざつぱく》だが、つねに第一義≠フものを洞察する能力である。これが、彼の私的行動も、司令官としての行動も規制しているように思う。  たとえば、彼には艶やかな話題がかなり多い。ほとんどが芸者相手の話である。横須賀航空隊の司令をしている頃、酒に酔って、芸者を人力車にのせ、自分はカジ棒をとって市内をひきまわしたという話がのこっている。海軍士官としては、マナーに欠ける行動である。常軌を逸しているという非難をあびても仕方がない。  ところが、彼は宴席や閑話の折でも、絶対に房事≠口にすることがなかった。芸者を眼の前において戯れることはあるが、男どうしの席では、けっして女の話を口にしなかったという。  大西はそれを節度と心得、時と場所をわきまえず女性の話をする男をひどく嫌い、ときには「下品なことをいうな」と、凄い眼で睨みつけたという。  これらのエピソードは、彼の性格をかなり輪廓づよく物語るものだと思われる。  山口多聞との乱闘も、要するに「それが戦争だ」ということの再確認があったし、男どうしの話題に「房事」を避けるのも、彼の好きな「一期一会」を守りたいからであろう。  大西瀧治郎という男は、いってみれば、論理や説明を意識の底に沈澱させ、そこから生じるうわ澄み≠フ価値を掬《すく》って、それを行動原理としていたのである。  米軍の空襲で汽車の中で足留めを食ったとき、大西には一室があてがわれたが、副官の門司親徳大尉には部屋がなかった。通路に新聞紙を敷いて横になり、浅い眠りに陥ちた。 「おい、副官、副官」  身体をゆり動かされて、門司が眼をあけると、大西が大きな身体で立っている。シャツとステテコ姿であった。 「オレの部屋で寝ろよ」  そういって、大西中将はさっさと先に立って歩き出した。門司が後からついてゆくと、寝台はひとつしかない。大西は先に寝台に入ると、器用に身体を片隅によせて、「さあ、入ってこいよ」といった。 「君は、オレの足の方を枕にして、お互いにぶっちがいにして寝ようや」  汽車が新竹に着くまで、海軍中将と海軍大尉は、互いに相手の顔に足をくっつけて睡りこけた。  門司大尉は、この寝台の中で、大西の中の人間≠感じている。彼は海兵出身ではない。東大経済学部から海軍主計将校になり、空母「瑞鶴《ずいかく》」に乗艦してハワイ奇襲に参加したのを皮切りに、ラバウル、ニューギニア、ミッドウェー、トラック島、マリアナ沖海戦と、大きな戦闘をくぐりぬけて、寺岡中将が一航艦の司令長官になったとき、主計から副官に転じている。  その門司にとって、大西瀧治郎という人間は海軍中将からはみ出す、|なにか《ヽヽヽ》を持った人間として映った。その|なにか《ヽヽヽ》≠ヘ、大西が海軍軍令部次長として第一線を離れるまで、しばしば門司の心情にある種の陰翳《いんえい》を落している。  その大西が、軍人生活の最後の前線司令長官としてマニラに着いたのは、十月十七日のことだった。この日、マッカーサーの先導部隊がレイテ湾口のスルアン島に達した。それを台湾で知ると、大西は「敵がきた。早くゆこう」と副官をせき立て、西側からマニラに滑りこんだ。  マニラの空は雲がちぎれ飛んでいた。台風が過ぎさろうとして、時折、熱い雨を椰子《やし》の林や白い建物に叩きつけていた。  翌十八日、フィリッピン諸島に散在する日本軍基地は、米軍機の一方的な空襲をあびて、息をころしていた。爆撃と銃撃が繰りかえされる中で、一航艦の先任参謀猪口力平中佐は「いよいよ上陸してくるな」と呟いた。  迎え撃とうにも、一航艦の主力は戦闘機がわずか三十機である。かつての一航艦は角田中将の麾下《きか》、艦上戦闘機だけでも五百機をこえ、全機数あわせると千六百機におよんだ。しかし、その充実した戦力でさえ不覚をとったハルゼー大将麾下の機動部隊が、いまレイテ島にひた押しに押してきている。 「三十機か、三十機をどうするかねえ」  猪口中佐は、ダバオ事件以来、そのことばかり口ずさんでいた。  ダバオ事件とは、前にもすこし紹介したように、見張兵の虚報が原因となって、マニラの日本陸海軍が右往左往した事件であるが、じつは航空機に実害≠ェ出ていたのだ。 「二〇一空」は司令部からの情報(じつは虚報)により虎の子≠フ百機をマニラやダバオからセブ島に避退させていた。これは基地の大きさから見ると、過集中であった。  ダバオ事件の一夜が明け、味方の哨戒機や見張所からなんの連絡もないので、全機は「即時待機」の姿勢を解いた。ほっとした空気が基地に流れた。先任士官が、空戦中に燃料がなくなった場合の操縦要領を、両手を使って説明しはじめた。  二十分もしたろうか。突然、スコールの雲間から敵機が姿をあらわし、基地に殺到し、爆撃と銃撃をあびせてきた。戦爆連合の百六十機である。味方の哨戒機は出ていたが、敵機はスコール雲の中にかくれて見えなかったのだ。 「二〇一空」からも十機が飛び立って応戦、敵の十機を撃墜したが、味方の損害は大破、炎上、目を掩《おお》わんばかりである。戦闘がおわったとき、温存に温存を重ねた戦闘機は三分の一に減っていた。    「特攻決定」へのスタート[#「「特攻決定」へのスタート」はゴシック体]  百機を擁《よう》しているとき、「二〇一空」は、毎日、セブ基地からボホール水道の海面にむけて反跳《スキツプ》爆撃の練習をしていた。海面から三メートルから五メートルの高度、というよりスキッピングの高さは投下時の高さに比例し、爆弾は敵艦の舷側にぶつける必要があるので、高度は舷側以下ということになる。海面すれすれだ。プロペラを海面で叩いて墜落するものも出た。しかし、かなり腕はあがった。  これは、実際のところ特攻≠ノ半歩近づいたものだった。スキップさせてからの避退がむずかしいのである。  アメリカの高射機関銃は一分間に六百発を射ち続ける。射手は引金をひいたまま固定してしまう。一分間に六百発は、一秒間に十発である。  零戦の突入速度は一時間三百ノット、つまり一秒間に百五十メートルである。ということは、アメリカの弾丸を十五メートルごとに一発うける計算になる。零戦の長さは十二メートルだ。つまり、弾丸を受ける確率は八○%になる。  しかし、これは高射機関銃を一基とした計算である。二基の場合は、零戦は確実に被弾することになる。しかもこの弾幕の中を進入して、目標の二百メートル手前でスキップさせると、零戦のスピードからいって一秒以内に避退しないと目標にぶつかってしまう。こうなると、技術よりも勘である。だが、この進入の計算をするまえに、目標の上空にグラマン、ヘルキャットが三段構えで待ち受けているのだ。これをかい潜って、待ち受け射撃≠フ弾幕をくぐって、さらにスキップしてから一秒以内に反転避退、これが実際に可能であったろうか。  陸軍航空部隊の場合も同様だが、この戦法は「特攻」の一歩手前で、確実に打撃効果を拳げるという思想にもとづくものであろう。結果は、しかし、「特攻」とはほとんどかわらない。ただ一点違っているのは、搭乗員の死が一〇〇%か九九%かという問題である。つまり「特攻」はそれ以外のあらゆる手段と位相を異にした戦法なのだ。  実際には、三十機ではスキップ爆撃隊を組むこともできなかった。それよりも、奥宮正武少佐によれば、零戦で二百五十キロ爆弾を抱えてゆくことさえかなりむずかしいという。スピードをあげると桿がきかなくなるし、エンジンをしぼると狙い撃ちにされる。つまり、零戦が爆弾を抱くということは体当り≠オか考えられない姿なのだ。  十月十九日、大西中将は副官の門司大尉をよんで「これからクラーク基地にゆくぞ」と告げた。門司大尉は「なんの用かな?」と思った。大西の乗用車は、黄色い将官旗をつけて、夕映えのマニラの町を突っ切った。それが「特攻決定」のスタートになろうとは思えぬほど、静かな疾走であった。 [#改ページ]
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