特攻の思想
. . .    第 四 章    「決死隊」が「特攻隊」に……[#「「決死隊」が「特攻隊」に……」はゴシック体]  マニラの司令部からクラーク飛行場までは、自動車で二時間半ばかりかかる。途中、しばしば比島人のゲリラが出没する。このため、比島方面軍司令官であった富永恭次中将は、乗用車の前後に護衛兵を満載したトラックを配して移動するのが常であった。  しかし、大西海軍中将は単独でクラーク飛行場に車を走らせた。比島の十月は、さすがに秋であった。落日は早く、丹《に》ずらう空は紫にかわり、東側は茄子紺《なすこん》に染まっている。その薄明の中で、大西中将はぽつりといった。 「これから決死隊をつくりにゆくんだよ」  副官の門司大尉は黙っていた。こういう場合、黙っているのが副官であった。が、「決死隊って、どういう姿のものだろうか」と、考えあぐねていた。大西長官のいった「決死隊」が「特攻隊」になろうとは、予想もつかなかった。そういう雰囲気が、最前線の基地である比島にも残っていた。  しかし、このとき既に大西の肚《はら》は固まっていた。というより、大西に「特攻」を選択させる戦況が展開されていたということである。  この日、大西は直接クラーク基地にゆくはずではなかった。司令部から二〇一空に対して「一三〇〇までに二〇一空司令および飛行長は出頭すべし」と命令を発していたのだ。ところが、司令の山本栄大佐と飛行長の中島正少佐はなかなか姿をあらわさない。そこで、大西中将の方から出かけることになる。それほどの切迫感が大西のほうにある。  山本と中島がクラーク基地を出たのは午後二時をまわっていた。朝から猛烈な空襲をうけ、それが一段落すると「敵部隊発見」の報が入り、攻撃機を発進させるためにてんやわんやの騒ぎが続いた。それで出発がおくれ、マニラに着いたのは午後五時ちかくである。  大西はこのときクラーク基地に近づきつつあった。つまり、両者はすれ違っていたのである。大西中将の「特攻発進」を語るうえで、この「すれ違い」はひとつの重要な材料になる。それは、彼の決意がいかに固かったかを証明することになる。  大西は山本司令と中島飛行長がマニラに到着次第、特攻編成を話すつもりであった。しかし、彼はみずから身体を運んでゆくのだ。  ダウという小さな町をすぎると、まもなくストッセンベルグという、唯一つドイツ語の名称のついた部落が左手に見える。これが見えるとすぐ、二〇一空司令部のあるマバラカットであった。比島の田舎町特有の、ごみごみした家並である。その一軒に、壁が卵色で窓枠が緑色、それにわずかなバルコニーを持つ、スペイン風の家がある。まわりを低い石垣で取り囲み、小さな庭にこんもりした繁みをもっている。かつて鐘紡が事務所につかっていたものを海軍が借りうけたという。  大西中将の乗用車はその家のまえにとまった。ひっそりとして音沙汰はなかった。やがて、指宿《いぶすき》正信大尉がゆっくりと出てきたが、将官旗をみると、あわてて近よった。 「山本司令と中島飛行長はマニラに行っております。玉井副長は飛行場です」  指宿が告げると、大西中将は「よし、すぐ乗れ」といった。  町から飛行場まではたいした距離ではない。十月十九日の落日が、最後の光を飛行場に投げていた。南国特有の、どこか甘酸っぱい匂いをふくんだ風が、ゆっくりと草原を這っている。  その風の中で、猪口力平中佐は指揮所の前に椅子を持ち出し、残存三十機の兵法を考え続けていた。    「捷一号」作戦の発動[#「「捷一号」作戦の発動」はゴシック体]  十七日の朝から、敵機動部隊は比島に殺到してきた。レイテ湾口のスルアン島が、まず、攻撃を受けた。 「敵部隊見ゆ」  同島の見張所から第一報が飛んできた。続いて「敵は巡洋艦および駆逐艦」。それからしばらく無電がと絶え、三たび、マバラカットの受信機が電波をうけた。 「敵は上陸を開始す。我は機密書類を焼き、これを攻撃、玉砕せんとす。天皇陛下万歳」  これが見張所からの最後の無電になった。  翌十八日、マバラカットは猛烈な空襲をうけた。マニラ、アパリ、ツゲガラオ、ラオアグの比島北部、それに南部のタクロバン、セブ地区もはげしい空襲をあびた。 「捷一号」作戦が発動された。日本海軍が、最後のZ旗を掲げたレイテ沖海戦の幕が切っておとされた。  猪口中佐は、マバラカットの飛行場で、この歴史的な時間を暗号電報の中から読みとっていた。同じ頃、彼の兄の猪口敏平少将は、戦艦「武蔵」の艦長として、出撃準備中であった。そのあわただしさは、やがてはじまる凄惨な海戦を予告していた。  猪口中佐の視野に、黄色い旗をちらちらとさせた自動車が入ってきた。「誰かな?」と戸惑っていると、自動車は指揮所の五十メートルばかり前でとまり、門司大尉がさっと降りると、そのあとから大西中将がのっそりと姿をあらわした。  猪口中佐と玉井浅一副長は迎えに出ながら、長官の来訪を「なんのために?」と思っている。これは率直な告白である。戦後二十数年を経て、「特攻出撃」の舞台を語ろうとするなら、大西長官の姿を見た途端に、「ある種の予感が走った」とか「きたるべきものがきた」とかいう言葉を使っても、不自然ではないし、その方がむしろ自然な感覚として受けとられよう。しかし、実際には「なんのために?」であったのだ。  大西中将は指揮所に入ると、椅子に腰をおろして、藍色《あいいろ》につつまれた基地の作業をしばらく眺めていたが、帽子をとって角刈りの頭をさっと一|撫《な》ですると、 「すこしばかり相談したいことがあるんだがね。どうだ、ちょっと宿舎まで一緒にかえらんか」  そういって、帽子をひょいとかぶった。その声にうながされて、指揮所のなかの士官たちは、いっせいに帰り仕度をはじめた。  長官のいう相談≠ヘ、二〇一空本部の二階の一部屋でおこなわれた。大西、猪口、玉井、指宿、それに横山飛行隊長。また、第二六航空戦隊から吉岡忠一参謀が呼ばれて馳せ参じた。これは、あとでわかるのだが、「特攻」を出した場合、戦果確認機を同行させるためである。 「戦局はみなも承知のとおりで、もし、こんどの『捷一号作戦』に失敗すれば、それこそ由々しい大事を招くことになる」と大西は切り出した。その「捷一号作戦」の要《かなめ》は、とにかく栗田艦隊をレイテ湾に突入させ、敵の艦船を徹底的に叩くことにある。それには敵空母の甲板を潰して、航空機の発着を不可能にする必要がある。 「すくなくとも一週間だな。一週間、空母の甲板が使えなければ、よいわけだ。そのためには零戦に二五〇キロの爆弾を抱かせて体当りをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが……」  大西は、きわめて明快に論理を展開して、「零戦に二五〇キロの爆弾を抱かせて体当り」に到達した。それから、彼はいった。 「どんなものだろうか……」    必死隊≠ニいう攻撃法[#「必死隊≠ニいう攻撃法」はゴシック体]  たしかに、それは相談≠ナあった。しかし、戦闘機わずか三十機の一航艦に、「体当り」以外、どんな途があるのだろう。問題をはっきりさせるためにいえば、敵空母の甲板を潰すためには、一航艦は任務遂行能力はゼロといった方が早い。  ほかに航空兵力はないのか。ある。福留繁中将の率いる「第二航空艦隊」が、二百五十機を抱えている。戦爆連合の大編隊を組む練習をつみ重ねている。これが台湾からマニラにくることになっている。  この航空戦力に期待することはできなかったろうか。そこはなんともいえない。ただ、福留中将は、台湾で大西とあった段階では、「体当り」には反対だった。戦爆連合の大編隊攻撃でゆけると主張した。それに―― 「特別攻撃法を採用した場合、搭乗員の士気は下るであろう」  大西とはまったく逆のことをいった。大西は「搭乗員の士気は確信をもって保証する」というのだ。  ここに「山本元帥亡き後の、海軍航空隊の第一人者」といわれた大西の悲劇がある。  論理的にいえば、福留の方が正しい。「搭乗員の士気」が「上る」か「下る」かで採決をとれば、おそらく「下る」の方が多いであろう。  私の手許に『太洋』という雑誌の昭和二十年三月号がある。連日のように、特別攻撃隊が発進している最中《さなか》の発行である。この雑誌の六頁から二十一頁にかけて「陸上攻撃隊・実戦座談会」がのっている。場所は「○○海軍航空基地にて」となっており、参加者は永石海軍大佐、巌谷少佐ら歴戦のパイロット十人、司会を作家の倉光俊夫がつとめている。  彼らは、飛行機のすくないこと、故障機の多いことを痛憤し、「特攻」に対しても冷静な眼を持ち続けている。巌谷少佐がこう発言する。 「従来の海軍の戦争は、日露戦争でもなんでも、決死隊というものはあった。飛行機でもなんでも常に決死隊なんだが、必死隊という攻撃法が出たのは、今度が初めてですから。今まではそういう御命令が戴けなかった攻撃です。海軍がそれを敢《あ》えてやったことから考えても、今の戦争がどれだけひどいかということが見当つくと思うのです。しかし、これはやはりアウト・オブ・ルールで、これを以て航空作戦の妙諦《みようてい》と考えることは――これから将来の航空戦の恰好はどうなるか分らんけれども、これが常道だというように考えたら間違いで、本当はやはりできるだけうまく攻撃をやって、戦果を挙げて来る。その一つの飛行機なら飛行機が何回でも押しかけるということで行かなければならない。それが出来る状態が上の戦争なんです。今の思想で考えると、ちょっとおかしいけれども、そうやって行かなきゃ航空の発達は得られんだろうと思います。みんなどんどん死んで行ったら発達はないですからね。人的に考えても、そういう気がするんです」  この思考順序が、昭和二十年の三月という時点で海軍士官の間に生きており、しかも公刊されることを覚悟のうえで、言葉になっていることは注目すべきであろう。  このような発言からすれば、大西中将は暴将≠フ名を冠せられることになろう。しかも、大西という「海軍航空隊の第一人者」は、この論理を実行し続けてきたといえるのだ。    論理ではない「体当り」[#「論理ではない「体当り」」はゴシック体]  開戦当初、海軍の攻撃機が比島に不時着、搭乗員六人が捕虜になり、戦死として公表された。それが生存となれば、当時の風潮からいえば「自決」が原則である。だが、大西は「そんな阿呆なこといってはいかん」と彼らを戦線に復帰させた。  ――パイロット一人をつくるには、時間と金がかかる。なんぼ飛行機つくったかて、パイロットがおらんけりゃ、戦争はでけん。艦と運命をともにする、機とともに死ぬ、を実行したら海軍の損失や。  大西は第十一航空艦隊の参謀長として発言している。ただ、彼は六人のパイロットから「捕虜」の名を消して、戦線に復帰させたわけではない。  参謀長の任務を酒巻宗孝少将がひきついだとき、大西はその「引継事項」の中に「六名には気の毒なるも、最前線の任務にあてられたし」と申しおくっている。酒巻はそのとおりにした。  後日|譚《たん》であるが、六人のパイロットはラバウルに送られ、事あるごとに空に舞いあがり、ついにポート・モレスビーの上空で全員が散華したという。こういうことを書くのは痛恨の極みである。  しかし、大西が開戦当初から戦力≠ニいう観点を守り続けてきたことは納得できる。その彼が、レイテ沖海戦をまえにして「特攻の方が士気を高める」と判断したのは、彼の身体の中で、実戦パイロットの経験と司令長官の判断とが奇妙な結合をとげていたからであろうと思う。    福留中将は特攻反対[#「福留中将は特攻反対」はゴシック体]  彼の前任者である寺岡中将も、二航艦二百五十機を擁する福留中将も、パイロットの経験はない。ともに「大艦巨砲」時代の海軍将官である。ひとり大西のみが、大正のはじめから、あるいはファルマン水上機のテストパイロットであり、あるいは中島飛行機からおくり出される海軍機の最初の搭乗者であった。大尉から少佐にかけて、彼は水上機を操縦しては島陰にかくれ、そこでスタント(特殊飛行)などをひそかにテストし続けてきたのだ。  この実戦歴は、論理の整合性が精密であればあるほど、そこに危惧《きぐ》を感じさせるであろう。これは「特攻」の場面に限ったことではない。  一航艦の司令長官として、小田原参謀長や花本参謀と作戦指導をはじめると、大西は一見うまそうな計画が出るたびに「そうかいな」と考え、それから「そんなことしたら、こっちの零戦はバタバタ落されますよ」と、両参謀の意見を手玉にとるようないい方をしたものだ。  だから、福留中将が「二航艦の編隊攻撃は期待できるものと思う」と主張して、これを「特攻反対」の論拠にしたとき、大西は「いまの練度では期待できるものか」と反対している。  この思いは、自分の率いる一航艦についても、同じである。しかし、彼は飛行長≠ナはなく司令長官≠ナある。敵の機動部隊は眼前にある。帝国海軍最後の連合艦隊は殺到しつつある。Z旗はあがった。艦艇の隻数からすれば、レイテ沖海戦に関するかぎり、彼我ほぼ同数である。艦隊決戦なら、勝算はないでもない。問題は航空兵力――。 「どうだろうか――」  大西の言葉のあと、一座には、粛然《しゆくぜん》とした空気が流れた。あきらかに、もはや、論理ではない。近代戦はシステム戦争である。そのサブ・システムの中に「体当り」という、死を客観の中に凍結させた観念、手法、行動が組みこまれている。そういう組みこみ方をすることによって、はじめて作戦が成立する、としかいえない。  まさに「敗けることを知らなかった帝国海軍」の悲劇である。 「一体、飛行機に二百五十キロの爆弾を抱かせて体当り攻撃をした場合、どのくらいの効果があるだろう?」  玉井副長が、隣りにいる二六航戦の吉岡参謀にたずねる。吉岡が答える。 「そりゃ高い高度から落した速力のはやい爆弾に比較すれば、効果は薄いでしょうがね。しかし、空母の甲板を破壊して、一時その使用を停止させることはできると思います」  それくらいのことは玉井中佐にもわかっている。ただ、大西中将の言葉のあとの沈黙を破ろうとしたのだ。玉井は大西の方をむいた。 「私は副長ですから、勝手に全体のことを決めることはできません」  大西がうなずく。 「司令である山本大佐の意向を聞く必要があると思います」  猪口中佐によると、玉井はこのときすでに「よし、これだ!」と決意していたという。ただ、事が事だけに、指揮系統を一応は立てようとしたわけだ。    「三十分だけ余裕を……」[#「「三十分だけ余裕を……」」はゴシック体]  このあとの光景を、猪口中佐はつぎのように書いている。玉井が「山本大佐の意向を聞く必要があると思います」といったあと――「大西長官は、それに覆いかぶせるように実は山本司令とはマニラで打合わせ済みである。副長の意見は直ちに司令の意見と考えてもらってさしつかえないから、万事副長の処置にまかす、ということであった≠ニ言った」  この光景の中で、玉井中佐は「否か応か」の決定を委《ゆだ》ねられる。彼は沈黙した。これから選択することは「決死隊」ではなく「必死隊」である。一座の視線が玉井に集まった、と伝えられているが、それは当然であろう。  玉井が、ようやく顔をあげていった。 「長官、三十分だけ余裕をいただけませんか」 「いいだろう」 「失礼します」と、玉井は指宿大尉と横山大尉を促して部屋の外に出た。暗い廊下を通って、私室へ二人を招き入れた。 「閣下は既に決意されているようだ。時は重大であるから、やむをえないと思うが……」  玉井の言葉を指宿大尉が途中から奪った。 「わざわざ私に聞いていただかなくても、副長、私に異存はありません」  玉井は、うなずくと、私室を出て大西長官たちのいる部屋に戻った。この間、大西たちは、黙ってすわっていた。  玉井は二〇一空が特別攻撃法を実施することを告げると、すぐ、 「重大なことですから、部隊の編成は私の手でやらせて下さい」  とたのんだ。大西は「う!」とうなずいたが、沈痛の色が顔を掃いたと、猪口中佐は記憶している。  風のない、暗い夜だった。爆音もなかった。湿った空気の中を、一行は階下へ降りていった。夕食の用意がととのえられた。カレーライスである。皆、黙々と食べた。  午後八時、大西中将は「おれはすこし寝る。みんなも休め」と二階へ上ってゆき、マニラに出向いた山本司令の部屋に入った。  あとは、玉井中佐が「体当り攻撃隊」の編成をするばかりである。 「第一次神風特別攻撃隊」が編成されるまでのプロセスを、できるだけ忠実に再現してみると、以上のようになる。  私には、再現してみる必要があった。なぜかというと、大西中将の言葉にすこし食いちがい≠ェ感ぜられるからだ。  大西中将は「零戦に二百五十キロの爆弾を抱かせる以外に方法はないと思うが……」といってから、「どうだろうか」と相談する口調になっている。  これは、大西中将の統率法の一種である。彼は、頭ごなしに「なになにすべし」といったことがない。つねに質問を発し、部下から自発的な答をひき出そうとしている。「命じられてやることはたいしたことではない」というのが、彼の口癖になってもいる。  しかし、このとき、もし玉井中佐が「体当り」以外の方法をのべたとしたら、大西中将はそれを採用したろうか。    空母の甲板を潰すのが目標[#「空母の甲板を潰すのが目標」はゴシック体]  問題はこれである。  後述するように、一航艦と三航艦が合併して「基地連合航空艦隊」をつくったとき、大西中将は再びマバラカットに搭乗員をあつめて、特攻隊の編成を命じている。しかし、この場でも「なにか、ほかに方法はないか」と聞いて、美濃部正少佐が「夜間戦闘機で攻撃をかけます」と意見をのべると、「うむ、よし」と、美濃部少佐には敢えて「特攻隊編成」を命じてはいない。ただ、この場合は二航艦の合併によって、機数も二百機近くなっている。  十月十九日夜の時点では、機数わずかに三十機。それもすべて零戦である。しかも「敵空母の甲板を潰す」という目標がある。大西中将に「失敗は許されない」という意識がある。つまり、大西中将は「どうだろうか」と相談をもちかけながら、肚は固まっていたのではないだろうか。そのように推測できる。  その推測のうえで、猪口中佐と中島少佐の手記を読むと、大西中将の発言に微妙なズレが発見できるのだ。  猪口中佐によると――玉井中佐が「私は副長ですから、勝手に隊全体のことを決めることはできません。司令である山本大佐の意向を聞く必要があると思います」というと、大西中将は「実は山本司令とはマニラで打合わせ済みである。副長の意見は直ちに司令の意見と考えてもらってさしつかえないから、万事副長の処置にまかす、ということであった」と発言している。  ところが、時間的経過を追ってみると、大西中将は「山本司令とはマニラで打合わせ済み」というが、この二人はマニラではあっていない。  冒頭で紹介したように、山本司令は中島飛行長を帯同、午後二時にマバラカットを出発し、大西中将とゆき違いになっている。しかも、彼らは、マニラで大西がクラーク基地(マバラカット)にむかったことを知ると、急遽ひきかえすべく零戦に乗った。ところが、この零戦が故障しマニラの町はずれの水田に不時着している。そして、彼らは通りかかった陸軍のトラックに助けられ、司令部にひきかえしたのだ。この事故で山本司令は左足首を骨折、中島飛行長は顔面に怪我をした。以下、中島飛行長の手記――。 「われわれは司令部の軍医官から応急手当を受けながら、ここではじめて、きょうの大西長官の要件が、体当り攻撃にあったことを聞いたのであった。司令は小田原俊彦参謀長からその話を聞くと、きょうの不時着をひじょうに残念がったが、マニラにいたのではどうしようもなく、さっそく当隊は長官のご意見とまったく同一であるから、マバラカットに残っている副長とよくお打合わせ下さるよう≠ニいう電話連絡を取ってもらった」  この電話連絡が、大西中将と玉井中佐のやりとりの前なのか、後なのか、はっきりしていない。  時間経過から考えると、山本司令のマニラ着が午後五時。それから零戦をみつけ、出発して墜落、陸軍のトラックにひろわれて司令部に逆戻り、そこで治療を受けながら小田原参謀長の話を聞く、となると、どうしても二時間や二時間半はかかり、大西・玉井会談に間にあうか、どうかである。  しかも、山本司令からの電話がくれば、それを必ず誰かが大西中将に伝えたであろうし、その一コマはやはり「特攻編成」のプロセスに組みこまれるはずだ。ところが、それらしいものは、猪口中佐の手記に出てこない。また副官の門司親徳大尉の記憶にもない。  かりに、山本司令の電話が間にあったとしても、意味があわない。大西中将は「山本司令は玉井副長の意見と同じ」というのに、山本司令の電話は「私の意見は長官と同じですから、玉井副長の意見をきいて下さい」となっている。  つまり、山本司令の意見は副長≠ニ重なったり長官≠ニ重なったりしている。  そこで考えられるのは、大西中将が「実は山本司令とはマニラで打合わせ済みである」といったのは、玉井副長の選択をうながすためのプロットではなかったか、ということである。いずれにせよ、「特攻隊編成」に落着したかもしれない。しかし、歴史はあらゆる結果論のまえに思考を停止してしまう。「どっちみち同じこと」なら、歴史は考えないほうがいい。    海軍航空隊の伝統[#「海軍航空隊の伝統」はゴシック体]  中島少佐の手記でもわかるように、大西中将は小田原俊彦参謀長には「体当り攻撃」の採用を告げている。それからマバラカットにむけて自動車を走らせたのだ。玉井は、その大西の決意の延長線上に立っていたのではないか。  大西は玉井を小さなプロットにかけて、「特別攻撃隊」の道をひらいたといえる。  もうひとつ、こういう決定の際に見落すことのできないのは、心理的理解群の存在ではないかと思う  大西中将が水雷や砲術の出身であったなら、「零戦に二百五十キロの爆弾を抱かせる」という戦法が現地部隊にスムースに適用したかどうか、疑問である。  奥宮正武少佐もいうように、零戦に二百五十キロの爆弾を抱かせると、操縦性能はいちじるしく落ちる。スピードをあげると舵はきかなくなるし、エンジンを絞れば狙い撃ちにされるのだ。  中島正少佐は、もっと基本的に、戦闘機はもともと防禦兵器であり、これを攻撃兵器にかえるからにはそれなりの稽古が必要で、稽古なしにやるのなら人命は既に保証されない、という。  以上のようなことは、大西中将、もとより承知のことであろう。つまり、誰もが無理≠ニわかっている戦法を採用している。採用しながら後悔していない。そこに心理的理解群が見られる。  これは「海軍航空隊」のひとつの伝統であろう。中島少佐は「昭和十八年ごろ、すでに決死≠ニ必死≠フ境目の議論があった」という。  彼が横須賀航空隊で隊長をしているとき、軍令部の一部長が来て「日本の戦力を比較するに七対一、国力を比較するに二十対一なり。このまま、尋常手段の戦闘を続けては勝目なし」と説明し、「艦攻に魚雷二本を抱かせて攻撃することあたわずや」と質問した。  中島は「やりましょう」と答えた。「勝つためには、それもまた、いいでしょう」  艦攻に魚雷を二本つけるためには、燃料をそうとう積みおろさなければ不可能だ。つまり、片道燃料で攻撃に出かけるのと同様である。しかし「彼我の戦力七対一」と説明されれば、それを前提とした戦法として採用せざるをえない。  このような認識の仕方は、昭和十九年十月中旬の比島において、誰の口をかりなくても通用していた。  空中戦になれば撃墜されるのは味方機ときまっていた。青い空に垂直に煙を立てて落ちてゆく飛行機を見るのは、歴戦のパイロットにはなんとも情ないことだった。「ここまで追いつめられているんだな」という実感があった。    滅びゆく零戦の栄光[#「滅びゆく零戦の栄光」はゴシック体]  開戦当初、図上作戦でシンガポール攻略をやってみると、零戦一に対してグラマン三で計算すると、なかなか陥落しそうにない。ところが、実際に戦ってみると、零戦一に対してグラマン十ないし十五というのが実力の差≠ナ、まことにあっけなく制空権を手に入れてしまった。  中島少佐はバリ島で百八機の戦闘機をもっていた。台南航空隊五十四、チモール島の五十四をあわせたのである。ところが、この百八機で南太平洋を制圧できたのである。たとえばポート・モレスビーに攻撃をかけたところ、一回でカーチスP40マホークは全滅した。しばらくすると、米空軍は二十機を補給した。そこで十五機で殴りこみをかけると、だいたい一対五の戦闘になり、二回の殴りこみで米機は藻屑と消えた。あるパイロットは敵の指揮官機に追尾攻撃をかけ、そのまま追いつめて、一発の弾も射たずにジャングルの中に撃墜している。吉田一という空曹は、一機で七機にむかい、上にいる順からひとつずつ撃墜したが、最後の一機と対戦したときは弾丸がつき、思い切りそばに近寄って、風防ガラスごしに睨みつけて帰還したほどだ。  この圧倒的優勢は昭和十七年の中頃までで、山本元帥が戦死した頃(十八年春)には、一対一の互角の勝負になる。  第一は、歴戦で名パイロットの多くが戦死し、練達の教官がいなくなったこと。第二は、零戦にたよりすぎて新型戦闘機の開発がおくれたこと。第三は、アメリカはグラマンF4Fの改良型であるF6Fを出したこと。第四は、零戦は一騎討ちの性格をもっているが、F6Fは組織戦法を編み出し、彼我の空中闘技に差がついた。  昭和十九年になると、これらの差に飛行士の練度の差が加わる。飛行時間二百時間くらいで実戦に参加させられる(緒戦のころは一人平均五百時間という練度だった)。結局、零戦三ないし五にグラマン一という差になってあらわれる。  零戦の栄光が滅びつつある。それは海軍航空隊が滅びつつあることだった。それを見つめる一航艦の飛行機乗り≠ヘ「枯れた心境になっていた」と門司大尉は回想しているが、このあたりが適切な表現であろう。  この心境のところへ大西中将が降り立った。  迎える小田原参謀長は、昭和十二年八月の渡洋爆撃∴ネ来の仲である。その当時、大西が司令、小田原が副長をつとめている。  大西は小田原の澄明な性格を愛していた。のちに小田原は連合艦隊付となったが、赴任の途中で、乗った飛行機が撃墜され、遺骸が新竹の海岸に打ち揚げられた。当時、「基地連合航空艦隊」は比島を引き揚げて台湾にあった。門司大尉が、連絡により新竹に赴き、小田原を荼毘《だび》に付して、遺骨を小崗山にある司令部に持ち帰った。そこで、小田原への送別会が行なわれた。大西は式の途中からボロボロと涙をこぼし、 「小田原参謀、なにして死んでくれたか。え? え? なにして死んだとか」  そんな言葉を口にした。大西には感情を抑えて端麗な|風※[#「ノ/二に縦棒を通す」]《ふうぼう》を見せるときと、一挙に感情をあふれさせるときがある。後者の大西は、男が惚れるような、爽快な涙であるという。 「菊池参謀長、小田原に送別の歌をきかせてやってくれ」  大西が後任の菊池朝三参謀長にたのむ。菊池は「暁に祈る」を歌い出した。声も節まわしもすばらしいのだが、このときだけは震えていた。「ああ堂々の輸送船」のところで嗚咽《おえつ》がこみあげてきた。    飛行機乗りの共通感情[#「飛行機乗りの共通感情」はゴシック体]  大西は、歌の中を歩いて、従兵の山本長三の脇に立った。山本が、はっとして顔を見ると、 「山本、おまえも小田原参謀長を知らんわけじゃないだろう。おわかれをしてあげなさい。長官がかわりにいただくから……」  大西はそういいながら盃を手にした。山本が酒を注ぐ。大西はそれを一気に飲みほすと、盃を山本に突き出し、 「ハイ、これは参謀長のご返盃」  そういって、手ずから山本の手にある盃に酒をあふれさせた。そのとき、菊池朝三参謀長が、朗々と吟詠をはじめた。   けふ咲きて あす散る花の 我身かな いかでその香を 清くとどめむ  大西は瞑目《めいもく》して聞いていたが、菊池の吟詠がおわると、 「誰の歌だ」  と聞いた。菊池が 「これは特攻に出た隊員の歌ですが、読みびと知らず、です」  そう告げると、「もう一度やってくれ」と大西は再び瞑目し、頭を垂れて聞き入る姿勢になった。   けふ咲きて あす散る花の……  吟詠の途中で、大西はうつむけた顔から、大きな涙をぽたっ、ぽたっと落していた。  大西はまた中島少佐とも空で一緒である。日中戦争の初期からだ。中島は九六戦の搭乗員で、大西は司令である。中島は敵が散在しているうえに、燃料ばかりくう遠距離爆撃に疑問をもっていた。 「命令が出れば別ですが、あの攻撃はつまりませんよ」  大西にいうと、彼は、 「命令が出てゆくのはアタリマエでしょ、そんなことをいうんじゃないよ」  と軽く受け流したが、作戦を変えなかった。部下には、階級や身分の差別なく、いつも主張したいことは主張させるという、あけっぴろげの上官である。  大西が写真をとられるところに中島がゆきあわせたことがある。大西はカメラマンに叫んでいる最中だった。 「私はサイド・ビューがよろしいからね。この角度から横顔をとって下さい」  飛行機乗りがどっと笑う中を、大西は大きな唇を真一文字に結んで、すまして撮影された。大西は、自分の顔が好きだったようだ。余談になるが、淑恵夫人と見合いをするとき、彼は「自己紹介状」の第一行目にこう書いている。 「眉目秀麗とはゆかずとも、目鼻立ちはハッキリ致し居り候」  そういう表現をつかう|ひょうきん《ヽヽヽヽヽ》さも持っていたわけだ。中島もそれを感じている。大西が大佐、中島が先任大尉のころである。漢口に飛行基地をもっていた。冬のことで任務はあまりない。 「おい、中島、鴨を射ちにゆこうや」  大西が大尉を誘う。二人は雪溶けの泥水の中を、どろんこになって匍匐《ほふく》前進をした。中島は、泥の中で銃をかまえ、射ち損じるとテレ臭そうに笑う大西に、人間味を感じている。  比島で大西を迎えた小田原や中島は、はじめから心理的理解群を形成したといえるであろう。飛行機乗りとしての共通感情、ともに空中戦に参加した戦友愛が、彼らの間に流れあっていたことは否めない。  比島での「特攻決定」が、門司親徳大尉が洞察した、一航艦の「枯れた心境」を背景にし、小田原や中島との共通感情にうけとめられたことを、私は否定できないように思う。  そして、大西が小田原や中島と共通感情を持ちあわせていたように、玉井中佐もまた手許に「十期飛行練習生」の三十名を持っていた。    死ぬときは海兵から[#「死ぬときは海兵から」はゴシック体]  大西が二階に上ってゆくのをきっかけに、夕食会は解散した。玉井副長には「特攻隊編成」の仕事が手渡されている。彼は、大西中将が「体当り攻撃」を口にしたときから「十期飛行練習生の搭乗員から選ぼう」と考えていたという。 「十期」が練習教程を卒《お》えて第一線部隊に配属されたのは、昭和十八年十月のことである。つまり「特攻出撃」の一年前なのだ。  彼らの最初の部隊は松山基地の「二六三航空隊」で、別名を「豹部隊」といい、隊長が玉井中佐だった。玉井は、この雛鳥≠フような搭乗員を受け取ると、それこそ手塩にかけて訓練を施した。しかし、わずか半年で、「十期」は松山基地からマリアナ方面に出動、テニアン、ヤップ、パラオの戦闘に参加する。戦死、また戦死。悪戦苦闘の果に比島南部の「二〇一空」に編成替えされたときは、生存者は三十名、同期の三分の一に減っていた。玉井は、ようやく命ながらえた教え子と、比島最後の基地で再会するのである。そして、その邂逅《かいこう》の直後にきたのが「特攻命令」であった。  玉井は、「十期」の宿舎にゆくと、二十三名の搭乗員を、ひとりひとり名をよびながら、起してあるいた。  集合は「従兵室」でおこなわれた。機密保持のためである。食堂や広場は使えない。小さな部屋が、男の臭いでいっぱいになった。小さなランプがひとつで部屋は薄暗い。それだけに、搭乗員たちの眼が光ってみえた。 「いまから話すことは、けっして口外しないように」  玉井は強く念を押してから、特攻隊編成の話をした。全員が賛成した。玉井が「明日、編成を発表する」といって従兵室を出たのは、二十日の午前零時すぎであった。  士官室には猪口参謀、吉岡参謀、指宿・横山の両大尉が持っていた。玉井が戻ってきて、 「全員賛成です」  と告げると、猪口参謀は「よし」とうなずき「指揮官には兵学校出を選ぼうじゃないか」といった。「十期」は生命を捨てることに賛成している。その「十期」を指揮するのは、やはり海兵出身であるべきだ、という考え方がある。「死ぬときは海兵から」という、矜持《きようじ》もある。 「管野がおればなあ……」  玉井がつぶやいた。管野|直《すなお》大尉は、宮城県の出身で、空戦技倆は抜群のパイロットである。かつてヤップ島上空でB24撃機とわたりあい、なかなか敵が墜ちないのに業を煮やして、体当りで尾翼をもぎとってやろうと考えた。後から攻撃すると機関砲の集中砲火をあび、前から飛びかかるには四つの発動機の邪魔になるとあって、彼はくるりくるりと反転しながら執拗に攻撃をくりかえし、とうとう自分の飛行機の右翼でB24尾翼をスッパリと切りとってしまった。B24失速して真逆様に墜《お》ちる。管野の飛行機もキリ揉み状態に入ったが、彼は失神から回復すると、右手で操縦桿をいっぱいに突込み、フットレバーを踏みつけて均衡を回復、右翼の半分ない飛行機で帰投したものである。  それくらいだから、いつも「海軍少佐管野直の遺品」と書いた箱を抱えて歩いている。自分で勝手に一階級昇進させたのが恥ずかしいらしく、その箱は滅多なことでは見せなかった。  折から、彼は内地に飛行機の受領交渉にいっている。玉井中佐が管野大尉を考えたのは、彼が空戦の神様として部下の信頼を集めていること、また「反跳《スキツプ》爆撃《・ボミング》」を編成した経験のあることが、大きな理由となっている。    関大尉に白羽の矢[#「関大尉に白羽の矢」はゴシック体] 「二〇一空」の士官搭乗員で、指揮官格にあたるものは十数人いた。管野はそのトップだが、基地にはいない。しばらくして、玉井は猪口中佐に、 「おれは関大尉を出してみたいが、どうだろ?」  と相談するようにいった。  関行男大尉は、管野と同期の海兵七十期である。猪口中佐が、海兵で教官として接している。もともと艦爆出身で戦闘機乗りではなく、ひと月くらいまえに、台湾からひょっこりマニラに転勤してきている。しかし、それからがうるさく、玉井中佐に「すみやかなる戦闘参加」を具申してやまなかった。その熱っぽい調子を玉井は思い出した。猪口中佐は「よかろう」といった。  従兵が関大尉を起しにいった。まもなく、関の足音が闇の中でした。玉井と猪口の二人だけが、彼を一階の士官室で待った。 「お呼びですか?」  関は身体の半分を灯に照らされて、玉井の傍に立った。「すわれ」と玉井は関に椅子をすすめると、静かな夜気の中で「じつはきょう、大西長官が来られて、『捷一号作戦』を成功させるための戦法を、じきじきに話された」と、語りはじめた。  関は黙って聞いている。玉井は、それから「特攻隊を編成した」ことを語り「ついてはこの攻撃隊の指揮官として貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」といった。  猪口中佐が気づくと、玉井は話しながら、関の肩を抱くようにし、ポン、ポンと叩きつつ話している。しまいには関の顔をのぞきこむようにして、「貴様に白羽の矢」を涙ぐんでいった。  関大尉は唇を結んで何の返事もしなかった。つと両肘を机につき、オールバックの長髪を両掌で抱えて、目をつぶり、歯をくいしばった。五、六秒であろうか、彼は顔をあげ、手をわずかに動かして髪をかきあげると、 「行きます」  それだけいった。「そうか!」と玉井中佐も、それだけである。猪口中佐が「君は、まだ、チョンガだったな」ときいた。 「いえ、結婚しております」 「そうか、していたか」  結婚後一カ月である。関大尉は、その場で遺書を書きはじめた。父母と若い妻にあてて二通である。  玉井中佐は、特別攻撃隊の編成がおわり、指揮官もきまったことを大西中将に告げるべく、暗い階段をゆっくりと登っていった。 [#改ページ]
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