特攻の思想
. . .    第 五 章    散れ山桜此の如くに……[#「散れ山桜此の如くに……」はゴシック体]  大西中将は、暗闇の中で、特攻隊の編成が終った旨《むね》の報告を聞いた。隊員は二十四名、隊長は兵学校出の関大尉、隊名は「神風隊《しんぷうたい》」。簡潔な報告であった。  大西は「うむ」とだけ言った。何も聞かなかった。  階下では、関大尉が遺書を書き終えた。 「父上母上様  西条の母上には、幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段御許し下さいませ。  今回帝国勝敗の岐路《きろ》に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。  鎌倉の御両親(注・妻の両親)に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき其の御恩に報《むく》ゆる事も出来ずに行く事を、御許し下さいませ。  本日、帝国のため、身を以て母艦に体当りを行ひ君恩に報ずる覚悟です。  皆様御体大切に」  もう一通、妻宛。 「満里子殿  何もしてやる事も出来ず、散り行く事はお前に対して誠に済まぬと思って居る。何もいはずとも、武人の妻の覚悟は十分出来て居る事と思ふ。御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様、色々思出をたどりながら出発前に記す。  恵美ちゃん坊主も元気でやれ 行男  教へ子へ(第四十二期飛行学生へ)  教へ子は散れ山桜此の如くに」  昭和十九年十月二十日の午前一時をまわっていた。  関大尉は玉井中佐と士官室でしばらく話し合った。当時、ひどい下痢に悩まされていた。玉井中佐が、夜が明けたらすぐに軍医に注射をしてもらえ、といった。それ以外に、どんな会話があったか、詳《つまびら》かではない。  ただ、関大尉は、ほかの練達のパイロットと同様に、個人的には体当り攻撃≠ノは納得していなかったようだ。出撃前のあるとき、彼は報道班員にこう語ったという。 「日本もお終いだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当りせずとも敵空母の飛行甲板に五百キロ爆弾を命中させて還る自信がある」  この意味のことを、彼が深夜の士官室で玉井中佐に語ったかどうかは、不明である。しかし、語らなくても、玉井中佐が忖度《そんたく》していたであろうと思いたい。 「特攻」の手段について、関大尉の心情と大西中将の心情とは、かならずしもイコールで結ばれていない。  関大尉は、また、同じ報道班員にこうも告げている。冗談めかした口調ではあったが……。 「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(家内)のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬんだ。最愛のもののために死ぬ。どうだ素晴しいだろう」  これに似た言葉は、その後の特攻隊員の手記にもしばしばあらわれる。あるものは「美しい山河のために」、またあるものは「敬愛する父母、弟妹のために」、敵艦に突入するのだと書き綴っている。「国家」とか「天皇陛下」という、倫理的存在を文字にあらわしていない場合もある。しかし、だからといって、彼らが自分の死を個人的な価値観にのみ連結させたとはいえないと思う。「最愛のKA」「美しい山河」は、小さな価値の円であろうが、それは同時に「国家」「天皇陛下」という価値の円と同心円の関係にあったろうと思われる。    最後の栄誉を守る[#「最後の栄誉を守る」はゴシック体]  このような「肉親愛」と「国家愛」との同心円的関係は、ひと口にいえば儒教思想を土壌とした皇国教育≠ェつくったものといえる。しかし、関大尉のような職業軍人としての教育を受けたものが「国を守ることが最愛のKAを守ること」という発想順序を逆転させて「最愛のKAを守る」に自決の原点をおいたことは、死にのぞんだ青年の心情の最後の部屋をみる思いである。この思いで、現代のような「国家目標」と「個人的生きがい」の分離状況をながめると、われわれは索漠たる感情におちこむのではないか。皇国教育という醜怪な巨岩はアメリカ教育というブルドーザーに突き崩され、一望千里の個人原理の平野が実現したが、その平野に芽生えた人間としての愛は、いかなる生態をそなえたものであろうか。この生態を、ふたたび国家の原理で構築し直そうとする思想がある。しかし、これは関大尉をはじめ二千数百名の特攻隊員が、もっともひんしゅくするところであろう。  寺岡中将は、その陣中日記に「しかして関行男大尉が出たことを大西中将は非常に喜んでゐた。それは○○○○○○であるからである」と書いている。  私は、その端正な毛筆で綴られた日記をめくって、○○○○○○のところに、おそらく戦後書き入れられたのであろう、朱筆の「兵学校出身者」という六文字を見たとき、異様な感じを受けた。  特攻隊の指揮官に職業軍人をえらんだことに対する安堵感は、おそらく兵学校出身者でなければわからないであろう。それが海軍予備学生ではなく海兵出身者であることが、現地軍のモラールを支えうるであろうし、また、帝国海軍の最後の栄誉を守ったという心情にも通じるであろう。  しかし、考えてみれば、大西中将を頂点とする「特攻計画」の参加者たちと、関大尉の心理原点とは、交叉していないのではないか。ただ、関大尉は出動し、敵空母に突入したのであるから、計画そのものは実現したとはいえる。つまり、特攻計画者と実施者との間は心理的には二重構造になっていたのだが、それにもかかわらず、計画が実施されたのは、「出撃」という具体的な行動がリードしたからである。あえていうなら、「特攻」の思想は、思想それ自体が自己運動をとげて完結したものではなく、行動によって導き出され、肥大させられたものといえるのである。  大西中将自身は、どうであったか。  彼は、特別攻撃隊に与えた訓示を、あとで「命令」に書きかえている。かならず自分で書いた男で、稀に参謀や副官に「書いてごらんよ」と起草させることはあるが、それを使ったことはない。そのかわり私的な文書になると、ものぐさと思えるほど筆をとらない。ある参謀が「閣下、後日のために『陣中日記』をお書きになったら、いかがですか」と進言すると、大西は「そういう日記は書きたいヤツが書くものさ」と、とりあわなかったという。    体当り攻撃隊を編成す[#「体当り攻撃隊を編成す」はゴシック体]  さて、彼の「命令」を読むと、あきらかに「戦術」と「戦略」とが二段構えになって、同居している。     命 令  一、現戦局に鑑み艦上戦闘機二十六機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り十三機)  本攻撃はこれを四隊に区分し、敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。|今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(傍点筆者・以下同じ)  本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す  二、二〇一空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、|なるべく十月二十五日までに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》比島東方海面の敵機動部隊を殲滅《せんめつ》すべし  司令は|今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をあらかじめ準備すべし  三、編 成   指揮官 海軍大尉 関行男  四、各隊の名称を、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす  一読してあきらかなように、「命令」の意図は「なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅する」にある。これは、栗田艦隊の「レイテ湾突入」を可能にするためだ。周知のように、この目的に沿って、小沢艦隊も沖縄を南下、わざと敵機動部隊に見つかるように電波を輻射しながら行動し、ついにアメリカ空母群を北へ吸い上げている。搭載機わずか百八機の小沢艦隊は、全軍が悲壮な最期を遂げたが、アメリカの水上部隊はまんまとわが術中に陥ちたのである。だから、小沢艦隊の行動は艦隊特攻≠ニいってもさしつかえない。つまり、「栗田艦隊のレイテ湾突入」が戦略目標であり、小沢艦隊の囮《おとり》作戦と一航艦の「飛行機特攻」とは、そのためのサブ・システムなのである。  もし、栗田艦隊がレイテ湾に突入したらどうなるか? かりに「大和」一隻が進攻したとしても、四十二サンチ主砲が火を吐くであろう。すると、一・五トンの砲弾が千五百発、ようやくタクロバンの南岸にしがみついたマッカーサー大将|麾下《きか》の四個師団に叩きこまれるのだ。十数万人のアメリカ兵と武器・弾薬・糧秣は、一時間かそこらで、肉片と鉄屑に化したであろう。  ちなみに、二十五日の朝、マッカーサー大将は蒼白な顔をひきつらせて、レイテ湾の入口を見つめていたのだ。傍らでは、幕僚たちが恐怖のあまり身体を震わせ、口もきけないでいる。マッカーサーは彼らを鋭い眼で見つめながら、まもなく起るにちがいない事態を想像し、血も凍る思いでいた。  午前九時二十五分、ついに重巡・羽黒と利根の二隻が湾口九千メートルの位置に姿をあらわし、艦砲射撃をはじめようとした。湾内に群がっているのは、丸腰の輸送船と補給艦のみである。波打際には、四個師団ぶんの弾薬と糧秣とが山積みになっている。  しかし、羽黒と利根は、転進してレイテ湾から去っていった。この栗田艦隊の転進≠フ秘密については、多くの報告があるので、ここでは省略する。    「命ずるものも死んでいる」[#「「命ずるものも死んでいる」」はゴシック体] 「栗田艦隊のレイテ湾突入」とは「短切なる方法において、一気に戦局の挽回をはかる」策であった。このことは、大西中将もはっきりと意識している。  二十日午後三時、味方の索敵機から「目標とするに足る敵部隊、サマール島東方海面にあり」と、報告が入った。  猪口参謀は、その位置を書き入れた海図をもって、大西長官のもとに走った。 「特別攻撃隊には距離がいっぱいのところですが、攻撃をかけましょうか?」 「いや、いかん」と、大西は即座に答えている。 「この体当り攻撃は絶対のものだから、到達の確算のない場合は、おれは決して攻撃隊は出さん」  このあと、大西中将はマニラにかえると、特別攻撃隊が出撃するまでは艦隊の出動を見合わせてくれるようにとの電文を書き、これをつかんで南西方面艦隊司令部(司令長官・大河内伝七中将)にかけつけてもいる。 「そのときには、もう、遊撃部隊に出動≠フ命令が出ていたんだ。二時間の差だったよ。こうなれば、今から出撃をやめてもらうのも、いたずらに混乱をますばかりだから、そのまま電文はひっこめて帰って来たよ」  後日、彼は猪口参謀に語っている。さすがに「海軍の徽章をイカリからプロペラにかえてしまえ」と主張していた航空第一主義者≠フ、たいへんな自信である。  しかし、このように「特攻」を「捷一号作戦」の戦術としながらも、一方で彼は「命令」に「今後艦戦の増強を得次第(特攻の)編成を拡大」と書いてもいるのだ。 「到達の確算のない場合は、おれは決して出さん」という言葉には、大西の個人的な心情さえ窺えるのだが、「司令は今後増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし」には、現地司令官の原理が大きく据えられている。いわば「特攻を出す」の「出す」が、個人的にはミニマムの程度でとらえられているが、司令官の位置ではそれが一挙に拡大されている、といってよい。  この個人的原理の拡大は、彼が、後に軍令部次長として徹底的に「本土決戦論」を唱えるところまで、続いているように思われる。  平たくいえば「若者を死なせておいて、まだ兵力があるのに和を講じることができるか」という、思考順序である。  この考え方が大西において成り立つのは、「死」、それも「特攻」という「客観にゆだねられた死」を自分の命令で創出したからであろう。  彼は、比島から台湾にひきあげて洞窟住いをしているとき、たまさかの酒宴にも途中で盃をおくことがあった。 「長官、ご気分でも……」  幕僚がきくと、大西はげっそりと憔悴《しようすい》した顔で、 「こうして酒を飲んでいても、比島では特攻が出ていると思うとな」  と、しめった声を出した。 「しかし、決定するおれも苦しかったよ……命ずるものも死んでいるんだ」  それなら、大西中将は「捷一号作戦」の「特攻」だけで、あとは中止すべきではなかったか、という考えもできる。  事実、猪口参謀がこれを大西長官に進言してもいるのだ。  第一次特別攻撃隊のあと、ひき続いて多くの隊が編成されて、出撃を開始したときだ。 「敵はすでにレイテに上陸し、戦局も一段落したのですから、体当り攻撃は止めるべきではないでしょうか」  この質問は、参謀として当然すぎるほど当然であった。特攻機は発進するのだが、戦果はそれほど上っていないのである。  大西は、こう答えている。 「いや、そうじゃない。こんな機材や搭乗員の技倆で戦闘をやっても、敵の餌食になるばかりだ。部下をして死所を得さしめるのは、主将としての大事ですよ。これは大愛なんだ、と自分は信じているんだよ」  大西中将の大愛≠ヘこうもいえるだろう。戦争という構造の中で、彼は自分の手で若者を殺しているのだ、殺さざるをえないような状況に彼も巻きこまれているのだ、と。  そして、「死地」を与えられた若者は、おのがじし、自分と「死地」とを結びつける価値の糸を発見しなければならない。  あるものは「妻を守るために」、あるものは「美しき山河のために」。また、たとえば林誠大尉(千葉医大薬学専門部)や山形慶二大尉(早稲田大学法学部)は、戦後、「米国爆撃調査団」に呼び出され、ヘラー准将から「各自が特攻隊員を志願した心境はどうであったか」との質問を受けて、こう答えている。 「学徒出身者として自分らはわずか一年の軍隊教育を受けたもので、必ずしも軍人精神を体得した者とはいえない。むしろ、一般人として戦局を痛感し、本攻撃をもっとも有効な攻撃法であると信じたのである。自分らが国家に一身を捧げることによって、日本国の必勝を信じ、後輩がよりよい学問をなしうるようにと志願したものである」    隊員の背中に秋の陽[#「隊員の背中に秋の陽」はゴシック体]  若者の価値の糸はさまざまだった。これを束ねて、ひとことに「国のために」と片づけてしまうのは簡単である。簡単ではあるが、けっして、それは心理的事実ではない。大西中将さえもが、個人の原理と国家の原理の間で、心理的な明滅をくりかえしていたのである。  彼は、二十日の朝、最初の特攻隊員を前にして、訓示を行なった。  関大尉以下、二十四名が並んでいる。本居宣長の「敷島の大和心をひと問はば、朝日に匂ふ山桜花」からとった、敷島・大和・朝日・山桜の四隊が特攻隊。一隊四人ずつで十六人。これに各隊に直掩機《ちよくえんき》と戦果確認機が一機ずつ付くから、このぶんが八人。 「国を救うものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。諸子の如く純真にして気力に満ちた若い人々である」  秋の陽差しが、特攻隊員の背中いっぱいにあたっている。風はなく、空の奥まで真青に見える天気である。  大西中将の言葉は、ときどき、ぷつっぷつっと切れた。短勁《たんけい》という調子にもきこえるが、あえぎあえぎという感じにもとられる。体側にのばした手が、ふるえてはとまり、とまってはまたふるえ出した。 「諸子の戦果は必ず上聞に達するようにする」  訓示がおわると、大西中将は、特攻隊員の列まで歩みより、一人一人に大きな手をさしのべて、握手をした。そのたびに「しっかりたのむよ」といい、ふと、涙ぐんだ。  訣別がおわると、二〇一空司令部の部屋に入り、訓示をもとに「命令」を書き、それがすむと、海軍軍令部に打電した。このときはじめて、「本攻撃隊を神風《しんぷう》攻撃隊と命名する」と、「神風」という言葉をつかった。  午後三時、味方索敵機から報告があった。前にも述べたように、大西は「おれは出さん」と、首を振った。それから「どりゃ、もう一度、諸君にあってこよう」と、腰をあげた。  特攻隊員は、飛行場のはずれの、崖がひさしのように張り出ている空地に屯《たむ》ろしていた。一面に薄《すすき》が生い茂り、その穂波が光をふくんで、ゆれている。大西はその穂を身体でわけて、隊員たちのまえにあらわれた。 「郷里はどこやね」  彼は、関西訛りをまる出しにした。訓示の声とは打って変って、やさしい声になっている。 「お父さんはなにをしておられるのかね」 「フィリッピンのまえは何処やね」……そんなことを、若い隊員に聞いた。  そのとき、空襲があった。  グラマンが快晴の空から降ってきた。鋭く、確実な音を立てて、機銃弾が規則正しい土煙をあげた。  特攻隊員は、いっせいに、地面に匍《は》った。頭をあげるひまもなく、銃撃は、二度、三度と繰りかえされた。副官の門司大尉が長官の身を案じて、ふと、上半身をおこすと、大西中将はどっかりと胡坐《あぐら》をくんで、薄笑いをうかべてグラマンを見ている。 「長官!」  鋭く叫ぶと、大西はニヤニヤしながら門司大尉にいった。 「弾丸《たま》は、あたるときはあたるもんよ」  豪胆といえば豪胆である。これについて、こんな話がある。大西は、日支事変には爆撃機に乗っていたが、彼の搭乗機はいつも編隊の最後尾を占めていた。この位置は、敵の邀撃《ようげき》機がいちばん襲いやすく、したがって最も撃墜される可能性の高い位置である。  ところが、あるとき、源田実がこの位置について実戦に参加した。帰還後、大西が「どうだった」ときくので、源田は「いつ撃墜されるかと、恐ろしくてヒヤヒヤしていました」と答えた。すると大西は「うん、貴様はえらい。おそろしいという自意識がある。おれなんか、作戦の方に気をとられて、なんにも感じないんだ」と笑い出して、かえって源田に「胆、甕《かめ》の如し、という言葉があるが、このひとのは底抜けだ」と舌をまかせている。  グラマンの銃撃を眺めていた大西中将は、豪胆ということもあろうが、その態度に「死地を求める|ふう《ヽヽ》」があったと、門司大尉や児玉誉士夫が語っている。  児玉が、台湾に転進した大西を訪れ、二人で歩きながら話していると、空襲があった。爆撃と銃撃の両方である。児玉が避難しようとして大西を見ると、彼は機銃掃射の弾着を前にして、空をみながらゆうゆうと歩いている。このとき、児玉は「閣下、あぶないですよ」といいながら、大西の身体を抱えるようにして、防空壕に押しこんだと語っている。  従兵の山本長三によれば、マニラ司令部は連日のように空襲を受けたが、大西中将はほとんど防空壕に入らなかった、という。 「長官、鉄兜を!」  山本がさし出すと、大西は「はいよ、ありがとう」と受けとり、「山本君、あぶないから壕に入っていなさい」と強くいって、自分はどこかへ立ち去ってしまう。山本は、ある将官が壕のいちばん奥に入って、ときどき「従兵、空襲は終ったか、ちょっと覗いてみろ」と叫んでいるのを聞き、同じ将官でもこんなに違うものか、と思ったそうだ。  大西中将は、空襲のさなか、司令部の奥庭に隠匿《いんとく》してあった特攻機の点検に歩いていたのである。山本従兵が、心配のあまり、壕をぬけ出して大西中将の姿を探したところ、大西は一機一機に軽く手を触れながら、機銃掃射の中をぶらぶらしていたという。  このような話を重ねて聞くと、「特攻決定」後の大西中将は、いかにも「死地を求めて」いるように思われてくる。    水筒で水盃[#「水筒で水盃」はゴシック体]  さて、最後の特攻基地での空襲がおわると、大西長官は「そんなら、僕ら帰るよ」と、腰をあげた。ちょっと歩いたが、副官の腰の水筒に眼をとめると、「副官、水は入っているのか?」ときいた。 「入っております」 「よし、いまから水盃やろう」  一本の水筒が、大西から玉井に、玉井から関に、関から二十三名の若い唇に、ひと飲みずつ、渡ってゆき、最後に大西の手に戻った。大西は、水筒を両手にもつと、隊員の顔を見て、 「そんなら、帰るよ」  もう一度、いった。これが、最後の別れとなった。大西はマニラにいて、マバラカット基地やセブ島から発進した第一次神風特別攻撃隊の発進を見送ることがなかった。  翌二十一日午前九時。「敵機動部隊レイテ東方海面にあり」と入電。 「特別攻撃隊、出発用意」  伝令が飛ぶと、隊員たちは薄の小径《こみち》を駈けあがり、指揮所のまえに一列に並んだ。  特攻隊出撃の舞台装置としては、なにもなかった。ただ、大西長官が前の日においていった水筒から、わずか一杯の水を、それぞれが飲んだにすぎなかった。テーブルが持ち出され、それに白布が敷かれ、隊員が日本酒を|かわらけ《ヽヽヽヽ》に受けて飲み干す風景は、特攻機がマニラから発進するようになってからである。  玉井中佐は、水筒の水を注ぎながら、涙をかくさなかった。隊員たちの間を、小さな水筒の蓋がまわっている間に、誰かが「海ゆかば」を歌い出した。やがて、低く重い斉唱になった。終ると、すこし間があって、また誰かが「予科練の歌」を歌い出した。これも斉唱になった。  歌がおわる。隊員が散る。一直線に搭乗機にむかう。プロペラが回った。つぎつぎに乗りこむ。 「副長、これをお願いします」  関大尉が、ひと握りの遺髪を玉井中佐にわたした。整備兵が、搭乗機にぴたりと寄り添っている。なかなか離れようとしない。顔じゅうを涙にしながら風防ガラスのむこうの関大尉を見つめている。関が手を振って「降りろ」と指示する。  離陸。上空で集合。さすがに腕ききをえらんだだけあって、見事な編隊を組む。すぐに空の東方に一点となった。  しかし、この日は敵を発見できず、全機帰投している。二十二日、二十三日、二十四日と、特攻機は索敵機の報告をキャッチするたびに舞い上ったが、レーダーを装備していないため、敵機動部隊を発見できずに終っている。  ことに二十四日は、栗田艦隊がシブヤン海を通過する日だった。折悪しく、スコールが壁をつくり、索敵を困難にした。しかし、一航艦の飛行基地には、栗田艦隊が米艦載機に一方的に攻撃されている情況が、刻々と伝えられている。すでに「武蔵」を失い、満身|創痍《そうい》になりながら、最後の連合艦隊は死闘を続けている。  特攻を発進させて敵空母の甲板を叩く――この計画は、海戦がはじまって以来、まったく実現されていない。航続距離の短い戦闘機にとって、索敵は無理なことである。  大西中将は、マニラの司令部にあった。「特攻隊発進」の報は受けとるのだが、攻撃は未遂におわってしまう。しかし、彼にとっての空白な時間の中で、実際の海戦ははじまっている。そんなさなか、福留中将の率いる二航艦が、沖縄から台湾を経て比島にやってきた。保有機三百五十機。福留長官は「特攻」に賛成せず、「おれのところは急降下爆撃と水平爆撃でゆく」と主張した。  大西中将は「そんなこと、できるもんか」と、最初からこの海兵同期生の将官のいいぶんを問題にしていない。技倆の低下は蔽《おお》うべくもなく、だいいち戦果確認機が、味方機が撃墜されて海面にあげる焔や水柱を見て、「小型艦艇撃破」を報告する程度になっている。大西は、そういうことも知っている。  しかし、彼が二十三日、二十四日の両夜、執拗に福留中将に「特攻隊参加」をすすめたのは、「捷一号作戦」のために編成した「第一次神風特別攻撃隊」の立ちおくれによる焦燥感が手伝ってはいないだろうか。  大西の、作戦会議における発言をこまかに読むと、特攻による攻撃は必ず成果を生むものと信ずるが、「一航艦の機数はひじょうにすくない(注・残り十四機しかない)ので、二航艦の戦闘機の一部をさいてこれに加勢してもらいたい」となっている。全部参加しろ、とはいっていないのだ。  福留中将は、この申し出をはねのけ、二十四日、二十五日の両日、二百五十機による戦爆連合の大編隊を繰り出した。しかし、戦果は「巡洋艦二、駆逐艦三を撃沈」にとどまった(米軍の発表では、補助空母プリンストンが航行不能に陥ったのち僚艦により轟沈、駆逐艦ルーツおよび上陸用舟艇五五二号が水平爆撃で沈没、油送船アシュタビュラ号が雷撃により損傷となっている)。    真っ先に突入した関大尉[#「真っ先に突入した関大尉」はゴシック体]  二十五日、関大尉のひきいる「敷島隊」は、ついにタクロバンの八十五度九十|浬《マイル》の地点で、敵機動部隊を捕捉、一挙に襲いかかった。アメリカ側の記録を見ると、彼らはレーダーの死角内すれすれに海面を低く飛んできたが、空母に近づくや急上昇し、それから一気に突込んできたという。高射機関銃を射ち続けた米兵は「よけると思ったヤツがよけずに、白煙を吐きながら迫ってくる」のを見て「オー、ママァ」と大声で泣きわめいたのであった。  最初の一機が空母「キトカン・ベイ」の甲板の端に突き刺さり、火災をおこした。空母「カリニン・ベイ」は前甲板に火災をおこし、さらに後部煙突付近にもう一機が突入した。最も被害を蒙ったのは「セント・ロー」で、対空砲火のため火だるまになった特攻機が、飛行甲板のセンターラインに突入、甲板を突き破って艦内で爆発した。このため、格納甲板にあった魚雷八本と爆弾が誘爆、これがまた飛行機に積んだ爆弾を破裂させた。やがてガソリン缶もいっせいに自爆するにおよんで、艦長は黒煙にむせびながら、叫んだのだ。 「艦尾は、まだ、わが艦にくっついているか!」  これを目撃したのは、「敷島隊」の直掩機に乗っていた西沢広義飛行兵曹長である。彼は、ラバウル航空戦以来の名パイロットで、マバラカット基地に帰投すると、つぎのように報告している。 「指揮官機(関大尉)は突撃のバンク(翼を振ること)をすると、真っ先に敵空母に突入し、見事に命中した。さらに列機が、火に包まれて逃げまどう空母に突入、黒煙は千メートル上空にふき上った。その中を、一機がまた空母に突入、もう一機は軽巡洋艦に命中した」  わずか五機で、空母一を撃沈、空母二、軽巡洋艦一を撃破したことになる。西沢飛曹長の報告は、ただちにマニラの司令部に打電された。  大西長官は、電文を受け取ると、胸のポケットから眼鏡をとり出し、ゆっくりと読んだ。彼は滅多に眼鏡を使ったことがなかった。まして電文の字は大きい方である。しかし、このとき以来、特攻隊関係の電文を読むときは眼鏡をかけるのが癖になった。  読みおわると、ふとく吐息をついて、ゆったりと身体を椅子に沈めた。  マニラからの電報が東京の海軍軍令部に届いたとき、源田実中佐は電文を両手でしっかりとつかみ、奥宮正武少佐に叫んだ。 「おい、一機命中、二機命中なんだぞ。わかるか、一機、二機だぞ」  一発命中ではなく一機だ、そこに源田の感慨がこめられていた。軍艦マーチが鳴り「大本営発表」が行なわれた。しかし、実際にはこの成功をきっかけとして、特攻が日常化への道を踏み出したのである。    「反対者はおれが斬る」[#「「反対者はおれが斬る」」はゴシック体]  記録によれば、「敷島隊」が突入する二時間まえに「大和隊」も敵水上部隊に襲いかかっている。しかし、戦果は確認されていない。また、第一次神風特別攻撃隊の四隊のほかに、次の編成である「菊水隊」「若桜隊」が、敵艦船に突入を図っている。  大西は、敷島隊の成功を手にして、二十五日夜、さらに福留中将に「特攻参加」をせまる。  福留は「士気の低下せざることを保証するなら」という条件をつけて、二航艦も「特攻」に参加することを承知する。これが二十六日の午前二時である。  この段階からの大西の行動はおどろくほど早い。  すぐさま、一航艦と二航艦の統一編成を提案、「基地連合航空艦隊」と名をかえて、長官には福留中将をすえ、みずからは参謀長の位置につき、作戦参謀に二航艦の柴田大佐、特攻の指導ならびに実施を担当する参謀に猪口中佐を配している。そうする一方、彼はその日の夕刻、クラーク基地に搭乗士官の召集をかけた。  美濃部少佐の記憶では、百五十人以上、集まったという。  大西中将は、玉兵団がマニラからオルモック湾に逆上陸することになっているが、その成否は敵の魚雷艇を潰すかどうかにかかっていると説明し、「天皇陛下も敵魚雷艇をいちばん心配しておられる」とつけ加えた。それから、パイロットたちの顔を見まわすと、「どうだ、魚雷艇を潰す方法はないか」と、つよい声でいった。  美濃部少佐が顔をあげた。 「夜間に低空で侵入して叩きます。ただし、マニラからでは遠いので、セブから出ます」 「よろしい」  大西は美濃部にうなずいてみせた。それから、江草中佐の顔を見ると「ほかにないか。水爆(爆装した水偵機)はどうだ」ときいた。  江草中佐はマニラに水爆≠もっているが、この飛行機は零戦より弱い。おそらく魚雷艇の上空はグラマンが直掩しているであろう。三段構えで、日本機が来たら挟み打ちにしようとの態勢だ。江草は、困惑した表情になる。 「江草よ、水爆≠ヘダメか」  大西の声に癇《かん》が走った。こうなると、あぶない。美濃部少佐が江草の脇腹をついて「いまは、水爆≠熈ゆきます≠ニいっておきなさい」と促した。江草の顔があがる。 「セブからゆきます」  大西は「ほかにないか」と、見まわした。誰も、なにもいわなかった。ほとんどが二航艦のパイロットである。鹿屋《かのや》から沖縄へ、沖縄から台湾を経て、比島に来ている。無傷無戦のものが多い。 「よおし」と、大西は強い声を出した。 「全部隊を特別攻撃隊に指定する。これに反対するものは、おれが叩っ斬る。これ以上、批評はゆるさん。おわり」  副官の門司大尉が、びっくりして、大西長官の顔を見た。二航艦のパイロットの間に、あきらかに動揺の色が流れた。「戦局はそこまで来ているのか」という衝撃もあったろうし、「ほかに方法があろうに」という不満もあった。大西がこのような非常のこと≠口にしたのは、現地で苦しみぬいた一航艦と無傷の二航艦の間にある違和感を、一挙に埋めるためではないか。門司大尉はそのように解釈した。  翌二十七日、二航艦の搭乗員による「特別攻撃隊」が早くも編成された。木田達彦司令がひきいる「七〇一空」の中で、純忠・誠忠・忠勇・義烈の四隊がうまれたのである。そして、彼らはその日の午後、マニラのニコラス基地を発進、レイテ湾内の敵艦船にむかって、突入していった。  この「第二次神風特攻隊」の使用機は、零戦が一機、「九九式艦爆」が九機、「彗星」(艦爆)が六機である。  戦果は、戦艦一隻中破、巡洋艦一隻大破、輸送船二隻を大破、同一隻を小破、となっている。  このあと、特別攻撃隊は陸続とフィリッピンから発進した。いや、戦闘にむかう飛行機は、ほとんど特攻隊であったといってよい。  ほどなく、ニコラス飛行場が敵の爆撃で使えなくなり、司令部の面した、マニラ湾沿いの道路が滑走路になった。マニラ湾の夕映えは世界の三大美景のひとつに数えられている。空も海も朱色に燃えるとき、特攻機は道路を真っすぐに滑走して、赤い雲の中の一点となった。  地上では、整備員がいつまでも帽子を振った。大西は、出撃と聞くと、かならず司令部を出て見送っている。しかし、訓示を与え、隊員と握手し、別盃の酒を飲むのは、彼ではなく、福留中将である。 「よろしくたのむ」  そういって福留は隊員の手を握った。大西は寡黙《かもく》になっていった。ひたすらに、特攻隊員のことを思うふうであった。  軍医長が、大西の憔悴ぶりを気にして、副官に「すこし身体に栄養をつけさせないと、いかんな」といった。副官から「なんとかならんか」といわれて、山本従兵は内地から視察にくる幕僚が煙草をおいていったのを思い出し、これを現地人との間に卵と交換した。  ある朝、山本は幕僚たちの食卓に卵をつけた。某将官が、殻を割って中身をおとし、黄味に血が混じっているのを見て、「従兵、貴様はこんなものを食わせるのか」と、怒鳴った。  大西は、自分の従兵が怒鳴られている間、じっとうつむいていた。一同が食事をはじめると、大西は「従兵」と小さな声で呼んだ。山本が近寄ると、彼はまた小声で、 「この卵は、特攻に出る隊員にもついているか?」  と聞いた。山本が、 「なにぶん、補給がありませんので」  と答えると、大西は、そっと卵を手で押しやり、 「これをやってくれ」  といった。大西は、リンゴが配給になればなったで、「ほう、珍しいな」といってから「特攻隊員にも出ているか」と、かならず訊ねている。彼らには渡っていないときくと、「やってくれ」と手でおしのけ、ひと口も食べたことがなかった。山本は、いまもこの話をしながら、滂沱《ぼうだ》たる涙をとどめえない。  大西の「日常化した特攻」に対する苦悩の原点には、彼のいう大愛≠ェあるだろう。「グラマンの餌食になるよりは死場所≠与える」という思想だ。しかし、この「死場所論」は、戦局に対する見解を媒介《ばいかい》として、はじめて「思想」として成立するものである。  当時からいぶかられていたのだが、第二次神風特攻隊以後の攻撃目標は「敵機動部隊もしくは艦船」におかれている。しかし、これは攻撃効果からいうと疑問である。  当時、マッカーサー大将の麾下四個師団はレイテ島を次第に制圧していたとはいえ、同島の日本陸軍の抵抗も熾烈《しれつ》であった。ために、レイテ湾内いっぱいに、武器・食糧を満載した輸送船が浮んでいた。  つまり、もし「特攻機」の目標が湾内の「船団攻撃」にむけられていたら、上陸軍は背後を襲われることになり、心理的にもかなり打撃を受けるはずである。  幕僚の中にも「船団攻撃にしたらいかがですか」と進言するものがあったが、大西は「いや、艦船だ」と断定した。  大局的にみれば、敵艦船を叩けば南方資源の輸送が確保されようという考えがある。さらに、フィリッピンのつぎは沖縄が目標になるであろうが、この沖縄進出をすこしでも引き伸ばし、米軍に出血≠フ大きさを知らせようという意図もあろう。    西郷と東郷に私淑して[#「西郷と東郷に私淑して」はゴシック体]  これらをひっくるめてみると、大西の「ドロンゲーム論」に集約されてくる。  東京日日新聞の戸川幸夫記者が、台湾に引き揚げてきた時点で大西にあい、「東京の海軍報道部では、敵は遠征のために補給線も伸びきっており、今こそその弱腰を叩く絶好のチャンスだ、といっていますが」と質問すると、大西は洞窟の中で、「馬鹿な!」と、ひとこと吐き出すようにいった。幕僚たちも沈黙した。それから戸川の「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」という質問に対して、大西は「勝たないまでも負けないということだ」と答えるのである。 「いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」  こうなると、特別攻撃隊は国民の緊張感のもと火≠ナあり、絶えず火を吐き煙をあげながら、続行されねばならなくなる。  大西の特攻の思想の根底にあるものは、「国民」ではなくて、「国体」である。いや、「国家の廉恥」というべきであろう。ただ、彼は「国家の廉恥」という抽象的概念に、その精神の焦点をあわせながら、死んでゆく若者への情念を昇華しきれずにいる。人間的苦悩と国家的原理との分裂が、彼の身体の中ではじまったのは、あきらかである。  大西の生家は、日本のどこにでも見受けられる、地主兼自作の農家である。家系に傑出した人物が出たわけでもなく、彼が海軍兵学校を希望したのは、西郷南洲と東郷元帥に私淑したからであった。しかし、それは心情であって、思想的原点ではない。それよりも、彼自身の性格が帝国海軍の中で稠密化《ちゆうみつか》されたと思われる。 [#改ページ]
06/10 .
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.