特攻の思想
. . .    第 六 章    大西郷を科学したような男[#「大西郷を科学したような男」はゴシック体]  戦時中、橋田文相が「科学する心」という言葉を使ってから、この妙な日本語が各界で流行したが、海軍の若い将校たちも大西瀧治郎に対して「大西郷を科学したような男」という讃辞を呈している。  この「大西郷を科学したような男」という評言は、言葉としては妙であるが、大西の「特攻」に至る思想を、きわめて悲劇的にいいあてていると思う。  大西の思想の中心にあるのは国家である。職業軍人が一般に持っているものではなくて、彼の場合は国家の経営とか方策というように、国家は倫理的な存在ではなく、生涯を費消すべき対象なのだ。つまり、彼が「特攻」を出撃させたのは、悠久の大義や護国の鬼≠ニいう抽象的概念をバネとしているのではなく、それこそ国家の経営に必要と認めてのことである。私は、そのように推論したい。いかに大西が海軍将校の信望を集めていたとはいえ、悠久の大義≠竍護国の鬼≠ニいう空念仏では、彼自身が血涙を絞ってまで「特攻」に踏み切れなかったであろう。だからこそ、「特攻」における個人の原理と国家の原理は決定的に対立するのである。  二つの例を挙げる。  米内光政が首相になったとき、大西は「南洲翁遺訓」の一節を軸にして贈呈している。当時、彼は海軍大佐である。分にすぎた行為であるが、これは米内に対する形をかえた上申書と見るべきであろう。米内は平沼内閣に海相として入閣したが、日独伊三国同盟に反対して不成立に終らしめている。が、この政治課題は彼が総理大臣となっても、なおくすぶり続けていたのだ。その煙の中へ、大西大佐は一書を投じたと見るべきである。南洲翁遺訓はすこし長いので、大西が引用した一部を紹介すると、 「西郷南洲翁征韓論口述。太政大臣な、篤と聞いて置いて下され。今の太政大臣でなく王政復古明治維新の太政大臣でごわす。日本を昔から小日本で置くも、大神宮の御詔勅の通り、大小広狭の各国を引き寄せて天孫のうしはき給う所とするも、皆おはんの双肩にかかっており申すでごわす。日本もこの儘では、何時までも島国の形体を脱することは出来申さぬ。今や好機会、好都合でごわすので、欧羅巴《ヨーロツパ》の六倍もある、亜細亜《アジア》大陸に足を踏み入れて置かんと、後日大なる憂慮に遇《あ》いますぞ……」  こういう書き出しで、西郷が朝鮮を外垣とし、ロシアに対する策源地たらしめよと主張したクダリを書き連ねている。この一文は、つぎの山本五十六中将あての文書と同じく「大西瀧治郎伝」に紹介されているが、この本の著者は、大西は「三国同盟論者ではなかったようだから、同盟締結の促進を慫慂《しようよう》した意味では無論なかったであろう」と説明している。  もう一通、大西はロンドン軍縮会議に赴《おもむ》く山本五十六宛に「南洲翁遺訓」を贈っている。  一、正道を踏み、国を以て斃《たお》るるの精神無くば、外国交際は全かる可《べ》からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は軽侮を招き、好親|却《かえつ》て破れ、終に彼の制を受くるにいたらん。  一、国の凌辱せらるるに当りては、縦令《たとい》国を以て斃るるとも、正道を践《ふ》み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日|金穀《きんこく》理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安《こうあん》を謀るのみ。戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府に非ざる也。    特攻以外の方法があれば[#「特攻以外の方法があれば」はゴシック体]  このとき大西は海軍中佐になりたてである。いかに山本五十六中将に可愛がられていたとはいえ、この贈呈もいささか礼を欠いたものであろう。ここで大西は西郷南洲の遺訓を藉《か》りて、彼の国家観を訴えたと見た方がよさそうだ。  戦後の大西評には猛将≠るいは暴将≠フ言葉がある。「特攻の創始者」として、超国家主義の理念にとらわれた、気違いじみた軍人という片付け方もある。  しかし、われわれは大西を暴将もしくは気違いじみた軍人≠ニいう評価に押しこめてしまえば、「特攻の思想」を語る必要はないのである。特攻は狂気の沙汰≠ニいうことになり、その思想的構造を語るべき対象にはなりえない。だが、そういう片付け方は、果して日本人の思想を問ううえで安全であろうか。  大西中将は、むしろ論理の将校≠ナあると思う。山本五十六と米内光政に贈った「西郷南洲翁遺訓」の一説は、それぞれ軍事と政治の接点に国家経営≠光彩陸離として語っている部分である。大西は、まさにこの部分のみを引用しているのだ。  特攻発進後の比島航空部隊は、消耗につぐ消耗で、見る影もなくなっている。十一月中旬、セブ基地にいた美濃部正少佐は大西中将に呼ばれて、単機、クラーク基地に急行した。 「パラオ島の傍にコッソル水道があるが、米空軍はここに大型飛行艇の基地を設営し、きわめて有力な偵察部隊となっている。常時、四十八機だ。これがわが方の補給艦船の動静を探り、潜水艦に通報しておるんや」  大西は、地図を指さしながら、状況を説明し、顔をあげて美濃部を見すえた。 「どうや、こいつをやっつける方法はないか」  彼に独特のいいまわしになった。  美濃部が答える。 「そりゃ、簡単ですよ」 「うむ、どうしてやるか」 「零戦が四機あります。セブからコッソルまで六百マイル、最大距離ですが、一気に攻撃をかけて焼き払います」 「いや、零戦は使うな。あれはレイテ島に使う飛行機だ。月光でやれ」 「長官、月光は使えません。あれは斜め銃ですから、二十メートルの間隙にしか射てません。零戦は固定照準ですから一箇所に、四、五発射てます」 「うん。それなら月光を特攻に使うか」  ここで美濃部少佐は、特攻決定以来、彼の胸にわだかまっていたものを、一気に吐き出してみた。 「長官、お言葉でありますが、特攻さえ出せばいいという考え方はどうかと思います。特攻以外の方法で、長官のご趣旨に副《そ》うことができれば、その方法の方がすぐれているわけです。私は、それに全力を挙げるべきだと考えます」  大西は、優しい顔をして聞いている。つい先頃、各隊の司令(中佐、少佐)をあつめて「全軍特攻」をいいわたし、「これに反対するものは俺が叩っ斬る」と、強い声を出した将官とは思えない。 「うん、それで?」  大西が促した。 「だいいち、特攻は、ありゃ軍隊の指揮というものではありません。指揮官の位置がなくなってしまいます。私は、自分の方法をもっていますから、兵の使い方について長官のご指示はうけません」  美濃部がいいたいことをいいおわると、大西は大きな眼を動かしてうなずいた。 「そうか。それだけの抱負と気概をもった指揮官であったか。よし、君のところの特攻は中止する。私としても、この攻撃方法(特攻)は信念としてとっているのだ。ただ、コッソル水道には零戦を使うな。そのかわり、魚雷艇攻撃と基地攻撃をたのむ」  そういってから大西は「どうだ、コッソル水道の攻撃には生還を期しうるか」と、たずねた。 「そりゃ行ってみないことにはわかりませんが、ま、ペリリュー島かパラオ島に不時着すればいいでしょう」 「うん、そうか。よろしく頼むよ」  美濃部の率いる攻撃隊は飛行艇焼き打ちに成功した。夜間、基地上空に侵入、八千メートルの高度から照明弾をおとす。あわただしい反撃がくる。それを待ってわが方はさっと引きかえす。これをやられると基地の方は仕事ができない。払暁《ふつぎよう》、美濃部少佐を隊長機とする零戦四機は、椰子の葉に翼を擦《す》らしながら、海面ひくく進入する。エンジンを絞り、音を殺しての低速だ。  レーダーには、三十度以下と六十度以上に死角があった。その死角を零戦は進んだ。海面に飛行艇が浮んでいる。ようやく薔薇色に染まりかけている。その美しい標的にむかって二十ミリと七・七ミリ機銃が火を噴く。飛行艇が朱色の炎をあげる。一機、また一機。海面に炎が映る。だが、敵機は迎撃してこない。夜間の照明弾投下で攪乱され、迎撃の準備ができていないのだ。  美濃部の隊は幻の零戦≠ニ呼ばれた。列機は、美濃部少佐を除いて、三人とも上等飛行兵曹である。ラバウル以来の練達の士だ。それだからこの攻撃は可能であった。美濃部によれば、当時レイテ基地に攻撃をかけた零戦は、ほとんど生還できなかったという。  このエピソードは、美濃部の武勇談≠謔閧焉A当時のパイロットの練度を語ってあまりある。  いわゆる幻の零戦≠フパイロットたちは、海面すれすれの低空飛行をしながら、なお機首を右と左に三十度ずつ、交互に振りながら飛行する腕前だった。  十二月一日、美濃部少佐に再び大西から呼び出しがかかった。 「これから内地に還って、君の思想による新しい隊を編成してきたまえ」  大西は命令した。  美濃部は、この際、ラバウル以来の上飛曹三名も連れてゆきたいとたのんだ。が、これは聞き容《い》れられなかった。 「零戦はレイテに使うんだ」  大西は断乎としていった。    論理の海将の悲哀[#「論理の海将の悲哀」はゴシック体]  美濃部は、その大西に指揮官の悲哀を見ている。指揮官は孤独である。よきアシスタントとプログラムがあって、はじめて持ち味≠発揮できる。 「だが、比島の大西さんにそれがあったろうか」と美濃部はいう。彼は、ダバオ事件(九月十日)の混乱を身を以て体験している。  当時、風速七メートル。海上に白波が立った。見張員がそれを戦車の上陸と見まちがえる。 「敵襲!」と叫ぶ。するともう、一航艦は司令部まで右往左往の大混乱であった。泣き叫ぶフィリッピンの避難民にまじって、海軍根拠地部隊が荷物を担いで遁走《とんそう》を開始したのだ。その奔流に逆いながら美濃部は司令部に到達する。  軍刀を吊るもの、ピストルを装填《そうてん》するもの、脚ごしらえをするもの……。 「なにをしているんだ?」 「これから陸戦だ。その用意をしろ!」  司令部の片隅で暗号の処理がはじまった。最高機密の暗号表は、いったん処分してしまうと、再交付されるまで時日を要する。美濃部は「それだけは確保しろ」と叫んだが無駄だった。飛行機に搭載する通信機の発信装置(水晶片)も、片っ端から粉微塵にされている。彼はたまりかねて、 「偵察機は出ているのか?」  と叫んだ。誰も答えなかった。 「飛行機はあるのか?」 「ある。ニコラス飛行場にある。しかし搭乗員はセブなんだ」  参謀が答えた。美濃部は飛行場にすっ飛んでゆき、ただ一機放置されていた偵察機に飛び乗って舞い上った。上陸地点とされたところを何度も通過してみたが、群青の海面は白波ばかりで、ひっそりとしている。彼は司令部に戻ると「いったい、なにが来たというのだ。なにも見えやしないじゃないか」と、怒りを叩きつけた。  彼は、これまでの経験から、アメリカ軍が上陸してくるときは、まず戦爆連合の大空襲をかけ、つぎに熾烈な艦砲射撃を浴びせ、それから上陸用舟艇を繰り出すという方程式を知っていた。  ダバオ事件がおきたとき、美濃部は電話口で「空襲も艦砲射撃もないじゃないか」といった。すると司令部は「なにをいっているんだ。ほんとうにくるんだ、命令どおりにやれ!」と叫んで、電話を切った。  美濃部は受話器を握ったまま「こんなことでいいんだろうか」と思い続けた。  美濃部の眼には、大西司令長官の身辺に孤独な風が吹いているように映った。大西が「もう俺は年配者には期待していないよ。若いひとに期待しているんだ」と呟くのを、彼は苦い思いで聞いている。大西の「終りを全うする最高の戦略はいかん。若き青年の純心にまつのみ」という言葉にも、心に頷《うなず》くものを感じている。  しかし、大西中将は美濃部少佐が独自のプログラムを開陳したとき、その場で「特攻」をひっこめ、さらに「君の思想で攻撃隊を編成せよ」と命じているのだ。つまり、大西中将は「特攻」を発進させたあと、みずからも暴将≠るいは狂将≠ノ変身したのではなく、論理の海将’の中心軸を崩していない。    漆黒の闇を凝視する[#「漆黒の闇を凝視する」はゴシック体]  このことは、美濃部の後日譚と比較すると、いっそう明白になる。  彼は内地にかえると、零戦二十機、彗星百十機をかき集めて訓練をはじめた。静岡県藤枝市の「戦闘九〇四」「八一二」「八〇四」の三隊がそれである。  この訓練はかわっていて、空中格闘などに重点をおかない。日が暮れると、飛行場の中に搭乗員をすわらせ、夜目をつくる訓練をするのである。あるときは深夜に全員を叩きおこして、漆黒の闇を凝視させることもやる。一週間もすると、夜目がきくようになる。そこではじめて飛行機に乗せ、夜間航法を練習させ、低空飛行、銃撃、反転退避と移ってゆくのだ。  美濃部は暗い飛行場の中で、時折、隊員を叱咤していった。 「貴様ら、これができないと特攻に入れるぞ」  二カ月の訓練のすえ、海軍航空隊の編成表にも機種による作戦表にも載っていない、特殊な部隊ができあがった。したがって部隊名のつけようがない。美濃部はこの部隊をひきいて沖縄に移駐したとき、寺岡謹平中将にたのんで「芙蓉部隊」と名乗らせてもらうことにした。  三月のはじめ、木更津で連合艦隊の「沖縄作戦会議」がひらかれた。各航空部隊から司令級(大佐、中佐)ばかり三百名があつまった。  幕僚長から、航空燃料はもはや底をつき、一機あたり一カ月に十五時間ぶんしかないと説明があった。それも松根油である。帝国海軍が血の滲む努力をして獲得したオクタン価九二≠ヘ望みえない。せいぜい八八である。これは、グラマンに遭遇した場合、鷲と鳩の戦いになる。 「そこで、赤トンボ(翼が布製の初級練習機)四千機をふくめ、全航空兵力を特攻とする」  幕僚長が計画をのべた。美濃部少佐が立って、反対を叫んだ。 「実用機ならとにかく、赤トンボまで特攻に出すのはナンセンスです。それに、航空燃料が足りないといわれるが、攻撃方法によっては一機一カ月十五時間はかならずしも不足ではない」  幕僚長が眼を剥いた。 「貴様、第一線の搭乗員がなにをいうか。必死尽忠の士が空を掩《おお》うて進撃するとき、これを阻むものがあるか!」  美潰部が反撃する。 「モノは人の顔をみていうものだ。私は死がこわくていっているのではない。敵のスピードは三百ノットだ。その中に百や百五十ノットの飛行機を泳がせて、生還も未還もあるものか。バッタのごとく落されるでしょう。ものはタメシだ。私はこれから箱根の上空で、ただ一機であなた方を待っている。ここにおられる方のうち五十人が赤トンボに乗って来てごらんなさい。私一人でぜんぶ叩き落してみせる。だいたい、責任者は査察が足らんのじゃないですか。夜に出かけて、明け方に攻撃する方法だってある。私はそれをやってきた。そういうことを考えもせずに、すぐに特攻≠口にすること、これがおかしいんです」  これで赤トンボの特攻化は防がれたが、沖縄決戦には中級練習機まで動員されたのだった。    手の届く「国家」[#「手の届く「国家」」はゴシック体]  大西中将の「特攻の思想」の背景には、いくつかの与件が考えられる。  戦局は最終局面である。通常戦闘法は指揮統率の限界にきている。青年将校は志操は高いが練度は低い。これを訓練する教官はいない。とすれば、残るのは士気のみだ。士気を高揚させるには殉国の思想≠ェいちばん手取早い。青年の殉国≠ノは反撃効果は期待できないだろうが、アメリカ軍に対しては心理的打撃を与えうる。あるいは、日本人の存在を知らせうる……。 「沖縄決戦」の幕僚長が衝動的に赤トンボ特攻≠口にしたのに対して、大西中将は思考の手続をふんで「攻撃」にふみ切っている。そして、ふみ切ったあげくに「国は負けても滅びることはない」という、大西の国家論≠ノ到達するのである。  海兵同期の寺岡中将や福留中将が、特攻出撃を迫られながら、積極的に踏み切れなかったことは前にのべたとおりである。寺岡中将は大西の前任者として比島にあり、東京からの命令を守って、飛行機の温存につとめていた。麾下の有馬正文少将が、この態度に業を煮やして、顔をあわせるごとに「特攻をかけましょう」と進言したが、絶対に容認しなかった。有馬少将は、台湾沖航空戦が始まると同時に、みずから特攻機となって散華する。  福留中将は大西中将に二日二晩、「特攻出撃」を迫られながら「俺のところは水平爆撃と急降下爆撃でやる」と拒み続けている。福留が特攻に踏み切るのは、大西が進発させた「第一次神風特別攻撃隊」の成功を確認してからだ。  三人とも同じ戦場に身を置きながら、大西だけが「特攻」のカードをひいたのは、戦術・戦略の思考の体系に「国家」を結びつけていたからではなかったか。しかも、その「国家」は、神しろしめす≠謔、なものではなく、具体的に手の届く「国家」であり、経営の対象になりうる存在である。  大正の中頃、大西は二年間の英国留学から帰国すると、友人の徳田富二を京都の下宿にたずねている。  余談になるが、大西がひじょうに英会話に長《た》けていたのは、この留学の賜物である。のちに、彼は池田を通じてハワイの商社員を紹介してもらい、さらにその商社員から原住民を斡旋してもらって、米太平洋艦隊の偵察を行なっている。ひげをはやし、くたびれた船員服をまとって、下級船員専門の食堂やバーに出入りしていたというから、スパイに毛の生えたくらいのことはやっていたのだろう。大西が帰国したあと、商社員は徳田にむかって「あのひとは大酒呑みだったが、じつにうまく変装して、ついに一度も日本人であることに気がつかれなかった」と話している。  さて、徳田を下宿に訪ねた大西は、そこにドンブリものや氷水を取り寄せて、徹夜で議論をしている。話題はいくつかあったが、最も熱中したのは「貴族院論」だった。徳田が、貴族院議員の世襲制はイギリスの制度をそのまま真似たものであり、日本の議院制度にはふさわしくない、議会がある以上、天皇もひとつの機関であって、それを取りまく貴族院が世襲というのはおかしい、と「天皇機関説」をのべるや、大西は真向から反対した。 「日本の国は天皇中心にできている。これは、家長式に組みあがっているからで、そうである以上、貴族院の世襲制でなければ藩屏《はんぺい》意識が出てこない」  午前三時になってもまだ決着がつかず、二人は黒谷門前の町に食べものを探しに出ながら、空が明るくなるまで話しあう。 「大西、おまえの主張は、国づくりのうえの便宜論なのか。便宜論ならば、おれにも異存はない」  徳田がそういうと、大西はまたムキになった。 「便宜論どころか、本質論や、日本という国はそういう特質になっておるんやね」  大西のこういういい方には忠君愛国≠謔閧熈事実認識≠ニいう感じがつよい。    美談のある戦争はいかん[#「美談のある戦争はいかん」はゴシック体]  昭和十一年の「二・二六事件」のとき、大西は海軍大佐で、横須賀海軍航空隊副長兼教頭の職にあったが、輩下の青年将校に同調の色をみせるものがあると、これを殴りとばして訓戒を与えている。  後日、大西の訓戒的態度がおもしろくないと、新田慎一大尉が食ってかかった。新田は大西が目をかけていた飛行機乗りで、酒が入るとすぐ虎≠ノなるので、「虎右衛門」と異名をとったほどの男である。その日も横須賀の料亭で飲んでいたが、新田は大西が日頃の言動からすれば蹶起した青年将校に少しは共鳴すると思ったのに、かえって訓戒的態度をとったのは甚だおもしろくないといい出し、「あなたの血は赤誠の赤い血ではなくて灰色に濁った血だ」と、からみはじめた。すると大西は「この野郎、灰色の血か赤い血か見せてやる」と新田につかみかかり、大佐と大尉は四つに組んだまま階段から転がり落ちたものだ。翌十二年八月、新田は渡洋爆撃に参加、爆撃隊長として不帰の客となった。大西は通夜の席に駈けつけ、新田の写真の前に一睡もせずに端座し続けたという。  それから七年後、大西海軍中将は軍需省航空兵器総務局次長として、朝日講堂で「血闘の前線に応えん」という講演を行なっているが、この中でも彼は「美談のある戦争はいけない」と、冷静な歴史観をのべている。 「だいたい、非常に勇ましい插話がたくさんあるようなのは決して戦いがうまく行っていないことを証明しているようなものなのである。たとえば、足利・北条が楠木正成に対して、事実は勝った場合の如きがそれである。あの場合、足利や北条の方には目ざましい武勇伝なり、插話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある。だから、勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいって決して喜ぶべきことではない。この大東亜戦争でも、はじめ戦いが非常にうまく行っていた時には、個人個人を採り上げて武勇伝にするようなことは現在に比べるとズッと数は少なかった。いまはそれだけ戦いが順調でない証拠だともいえるのである。状況かくの如くなった原因は、航空兵力が残念ながら量において甚だしい劣勢にあり、制空権が多くの場合敵の手にあるがためである」    見る影もない航空部隊[#「見る影もない航空部隊」はゴシック体]  これほど客観化能力のある人間が、「特攻」を出したあと、その規模を拡大してしまう矛盾は、結局、彼の「国家観」「死生観」の問題になってくるのである。  そこで、敵の攻撃が激しくなり、戦局が我に不利になればなるほど、大西中将の「特攻の思想」は減速されるのとは反対に加速されてゆくのである。これは、大西がその論理構造に「国家論」を組みこんだことの悲劇的傾斜である。  十九年十一月中旬、レイテ島に上陸した米軍はタクロバンを足がかりにして、いよいよ比島攻略のプログラムを展開しはじめた。この頃から、わが航空部隊は船団攻撃に移ったが、飛行機の損耗は激しく、連合基地航空部隊は見る影もなくなった。  大西中将は猪口参謀を呼ぶと、「君、これから連合艦隊に飛行機をもらいにゆくよ」といった。 「長官が行ったのではおかしいですよ」と猪口がとめると、「いや、わしは連合基地航空部隊の参謀長としてゆくんだ。だいいち、わしがゆかんと飛行機はくれんのだ」と、大西は笑った。  大西は、一航艦と二航艦を合併して連合基地航空部隊をつくったとき、司令長官の座を福留中将に譲って、自分は参謀長の位置についている。  大西と猪口は、幕僚がそろえたデータを鞄につめると、一式陸攻に乗って出発した。このとき、大西は飛行機のタラップで足をすべらせ、うつむけに倒れて、したたかに胸を打った。顔面蒼白になって、しばらく、起き上れない。周囲のものが「おやめになったら」といったが、彼は「いや、ゆく」といい、急ごしらえのベッドに横たわったまま、横須賀まで飛んだ。  連合艦隊司令部は、九月に「大淀」から日吉《ひよし》に移っていた。大西は横須賀から日吉に直行し、猪口を帯同して豊田副武司令長官を訪れた。  豊田が椅子から立ち上って大西を迎えると、彼は猪口参謀の方を見やりながら、開口一番、こういった。 「長官、うちの先任参謀は、わしのやることをチョロイいいますですがナ」  猪口によれば、これは大西がよくやる手だそうである。まず、「相手に下駄をあずける」ようなことをいい、それから攻めてゆくのである。  大西は比島の戦況をくわしく説明したうえ、航空機三百機と飛行時間二百時間から三百時間のパイロットを欲しい、と申し入れた。 「米軍が、レイテのつぎにミンダナオに手をかけた場合、これだけあれば打つ手が考えられます」  豊田大将は、大西の申し入れに「なんとか考えよう」と答えた。半分は大西の怒濤のような説明に動かされた感じであった。  結局、連合艦隊司令部が決定したものは、航空機百五十機だった。大西の要求の半分だったが、これとても苦心惨憺してかき集めた兵力である。教育航空隊のある大村、元山、筑波、神《こう》の池《いけ》各基地からむしり取るように持ってきたのだ。  パイロットの方は、飛行時間二百〜三百時間どころか、やっとこさ実用機教程をおわろうとしている飛行時間百時間程度の予備少尉が主体で、これに若干の教官がついていた。    離陸と体当りだけ[#「離陸と体当りだけ」はゴシック体]  大西は以上の収穫を得ると、「さあ、早く帰ろう」と、早々に一式陸攻に乗りこみ、横須賀を離れた。  比島に向かう途中、台湾で猪口参謀をおろす。これは、豊田からもらった百五十機を一航艦に編入し、全機を特別攻撃隊に仕立てるためであった。  猪口は、台中あるいは台南で、内地からくる隊員に「特攻教育」をほどこし、つぎつぎに比島におくりこんだ。教育日程はほぼ十日間だった。  第一、第二日が発進訓練(発動、離陸、空中集合)。  第三、第四日が編隊訓練(出発時は発進訓練を併用)。  第五、第六、第七の三日間が接敵突撃訓練で、これには前教程の発進、編隊訓練が併用された。  考えてみれば、ようやく実用機教程をおわった予備少尉が、わずか十日間の訓練で実戦に参加するのである。彼らに施された教育は離陸≠ニ体当り≠オかないわけだ。このときから「特攻」専門の教育が始まったとみることができる。  特攻機の攻撃方法には「高高度接敵法」と「超低高度接敵法」の二種類があった。  前者は、五千メートルから七千メートルの高度で進み、目標発見とともに、約二十度の深さで機首を下げ、一気に突入して、高度二千メートルから千メートルのところを突撃点とし、約四十五度から五十五度で突入する。この方法だと、敵の迎撃機につかまらないという長所があるが、同時にまた索敵に不利であり、搭乗員に酸素吸入が必要になる。  超低高度接敵法は海面を低く這って進撃、目標の近くから急上昇し、高度五百メートルくらいで切りかえして、深い角度で突入するのである。  実際の攻撃にあたっては、この超低空攻撃と高高度攻撃が併用されたが、いずれも真直ぐに敵艦船の甲板に突き刺さるような体当り≠ェ効果をあげた。ある日、セブ発進の零戦がスリガオ水道からタクロバンに向かいつつあるとき、トラック付近で敵艦を発見、ただちに切りかえして突入したところ、ほとんど直角に巡洋艦の甲板に命中、ために艦は真二つになって轟沈したという。  猪口中佐が、台湾で一カ月間、特攻専門教育を施したのち、最後の十三機と比島に帰りついたのは十二月二十三日のことである。そのとき、司令部はクラーク基地の最北部にあるバンバン飛行場の近くの小丘に移っていた。すでに、都落ちの感が深い。  急製造の特攻隊員は、命令が下ると、黙々と飛行機に駈けより、離陸すればもう帰らなかった。    眼底に威力を持った少年[#「眼底に威力を持った少年」はゴシック体]  福留中将と大西中将の二人は、かならず出撃を見送った。福留はいつも小ざっぱりした服を着ていたが、大西はヨレヨレの軍服姿だった。  従兵の山本兵長が大西の服にアイロンをかけようとするのを見て、大西がとめた。 「もう服にアイロンをかける必要はないんだよ。そういう時期ではありませんよ」  そのころから、山本は大西の見てはならない姿を垣間見るようになった。大西は軍刀の手入れはきちんと行なっていたが、手入れがおわると、しばらくその光芒に目をあて、それから腹に突き立てる仕草をして、鞘《さや》に収めるのである。  山本はその姿を暗然として眺めている。そして、大西が揮毫《きごう》を求められると「決死不如不思死生」(決死ハ死生ヲ思ワザルニ如《し》カズ)と書く心情を了解した。  大西は、かなり若い頃から「死生観」を求めていたようである。  彼が柏原《かいばら》中学に入ると同時に日露戦争がはじまったが、旅順港閉塞戦の広瀬武夫中佐の話が、この少年の心をつよくとらえている。  彼が中学の寄宿舎から妹に書き送った手紙には、末尾に「兄、武夫」と書いているものが多い。  広瀬中佐に心酔のあまり、名前を借用しているわけだ。二級上に富田貴一という秀才がいて、この男はのちに優秀な成績で海兵に入り海軍大佐まで進んだが、これが大の広瀬武夫崇拝者だった。大西はこの先輩につよく感化されている。  富田は万事につけて徹底した男で、寄宿舎の学生長をしているとき、真冬でも学生たちに足袋をはかせなかった。大西もこれに倣《なら》い、正月休みで家に帰っても足袋をはかなかったという。彼の生家は兵庫県氷上郡青垣町にあり、いわゆる丹波|篠山《ささやま》≠フ一隅で、裏日本型の気候に支配され、冬は猛烈に寒い。雪もかなり深い。このため冬仕事≠ヘなくなり、村人たちは酒づくりで有名な丹波|杜氏《とうじ》≠ニなって、灘や伏見に出稼ぎに出るのである。こんな風土の中で冬足袋なしにとおすのは、よほど強情なものでないとつとまらない。  大西の同級生に陸軍中将の大城戸三治がいる。大城戸の回想によると、二人で学校の裏手にある高鉢山に登った。雪の深い日だった。脛まで埋りながら雪を泳いでゆく大西は、裸足に下駄を突っかけた姿であったという。  しかし、私にとって印象的なエピソードは、小学校の旧師である内尾政玄の回想談である。  内尾は大西が一年生のときの担任だったが「質実|朴訥《ぼくとつ》な眼底に威力をもった少年であった」と印象をのべている。永いつきあいではなく、兵役の関係から一年半で、内尾は小学校を去る。  その日、全校の職員生徒が挙げて駅に見送りにくる。内尾の乗った汽車が、日の丸の小旗を後に流して駅をはなれ、三百メートルほど走ったところで、田圃の中に二人の少年が泣きそうな顔をして手を振っている。一人は三年生の富田貴一であり、もう一人は大西瀧治郎である。  全職員生徒の歓送の群から離れて、富田と大西だけが田圃の中で見送ったという風景は、偶然かもしれないが、大西が海軍将校になってからの姿勢に一貫しているように思われる。この見送りのときから大西は富田の感化を受けていたのではなかろうか。  富田も大西も、同じ中学に進み、同じ四年修了で海軍兵学校に入っている。    「人生は水泡の如し」[#「「人生は水泡の如し」」はゴシック体]  大西の「死生観」は「決死不如不思死生」に尽されるが、具体的には、母の|うた《ヽヽ》が亡くなったとき、長兄におくった手紙がその端緒を物語っている。  大正二年五月、大西瀧治郎は海兵を卒業して遠洋航海をおえたばかり、「筑波」乗組の少尉候補生である。その一部を紹介すると、 「悲しみても余りあれど、今に及びて何をか言はむ。只あきらめが大切なり。又一度思ひをひるがえして、宇宙を大観せんか、生必ずしも喜ぶに足らず、死|亦《また》悲しむに足らず、人生は古人の言へるが如く、宇宙なる大海に生ぜし水泡の如し。(中略)この大海に於ける水泡、何ぞ宇宙に於ける人生に彷彿《ほうふつ》たる。この水泡の生ずるは、人生の生まるるにして、泡の消ゆるは人生の死なり。而《しこう》して泡の生ずると言ふは、大海の水の風波等によりて、ただ実に不安定なる夢の如きものに形を変じてあらはれしのみ、水泡も之れ大海の水の一滴なり。  之れと同様に、水泡の消ゆるは、ただ其の形消えて、甚だ安定なるもとの海水に帰するなり。人生は之れ宇宙なるものの一分子が、甚だ不安定なる、果てなき泡の如き人生なるものに変ぜしなり」  瀧治郎、ときに二十二歳である。その年齢にはむしろ不似合なほどの無常観≠ェ、整然とした文脈で語られている。日付けに「五月二十一日夜十二時蝋燭の光にて」とあるが、当時の軍艦は燃料節約のため碇泊中は午後九時に消灯している。大西は、実際に、蝋燭の光の下で、この無常観を書き綴ったのであろう。  彼にとって、母親の|うた《ヽヽ》はきびしい存在であった。大西のいたずらがすぎると、容赦なく土蔵に入れ、頑固な少年が詫びるまで、扉をあけようとしなかった。それだけに、母の死は彼の胸中にあるものをひき出したのであろう。  彼は末尾に「終りに臨みて、我が亡き母上を歎美せむ。我が母上は全身之れ涙にて、女らしく且《か》つ雄々しきところおはしまし候」と書いている。 「全身之れ涙にて」は、大西の母親に対する心情の投影であろう。大西には、思考の順序が整然としている反面で、きわめて心情的な性向が見られる。  結婚後はじめて出港するとき、妻の淑恵が玄関で軍帽をわたしながら、ふと、涙ぐんだ。 「ヘンな顔するな」  大西が睨んだので、淑恵も「あんただって」と睨みかえす。ほどなく、乗艦から長文の手紙が来た。長文といっても、大西の手紙は三センチ四方の文字で書いてあるので、内容は冗長ではなく、箇条書きになっている。  一、男が家門を出ずるとき、気にかかるやうなことをいふべからず  一、涙を見せしは失礼にあらずや  一、火事のときに持ち出すものを整理し、夫に異変ありたるとき連絡すべきところを書きおくべし 「おせん泣かすな」式の手紙であるが、死への対面を薄く匂わしている。  第一航空艦隊司令長官として比島に赴く前夜、「平時なら名誉なことだが、いまとなっては陛下から白刃の載った三方《さんぼう》の箱をわたされたようなもの」と義母に語ったことは前に述べたが、同じ夜に妻の淑恵が「なにかおっしゃって下さい」というと、大西は歌うような調子で答えている。 「五十年、百年生きられるなら、いってもやろうが、もうすぐ灰になる身分じゃないか。いわんでおくのが花ですよ」    死場所を比島に求む[#「死場所を比島に求む」はゴシック体]  大西が豊田と直接交渉して編成した「新編特別攻撃隊」も、次第に、その姿を減らしていった。アメリカ軍は、昭和二十年に入ると、マニラの西方海面に進出、このため日本軍は北方へ移動を開始する。  大西が、ここでまた、ひとつの決断をする。二十年一月四日、彼は猪口先任参謀と二航艦の菊池朝三参謀長を私室に招いた。 「もう飛行機もなくなったことだし」と大西は角刈りの頭を撫でていった。 「後はわれわれが引き受けて、二航艦には早く下がってもらおうと思うが、どうかね、先任参謀」 「もちろん比島は一航艦の縄張でありますから、航空作戦のできない今となっては、足もとの明るいうちに下がってもらうべきです」  猪口が答える。菊池は「一航艦をのこしてわれわれだけが下がるのは困ります」と反対した。だが、大西は菊池の言葉に押しかぶせるように断を下した。 「よし、わかった。それではそうしよう。おれから福留長官に話すからね」  有無をいわせぬ態度である。この場面は、猪口参謀の手記に出てくるのだが、大西中将の胸中を語るうえで、かなり重要である。  大西が航空兵力をもたない一航艦を比島の山中に残し、二航艦を引き揚げさせようといったことは、つまりそれからの戦闘を陸戦に切りかえることを意味し、「特攻」を放棄したことになるであろう。これが第一。  第二は、あきらかに死場所≠比島ときめていることだ。彼はその決断にあたって、福留中将とその二航艦を切り離している。  一月六日夜。台湾から一式陸攻が二機飛来した。二航艦の将兵を輸送するためである。ささやかな別れの宴があった。二航艦側に、福留中将や島崎航空参謀の顔が並んだ。 「ごきげんよう」  陸戦隊に変身した一航艦のパイロットが声をかけた。 「武運長久を祈ります」  二航艦が答えた。日本酒とスルメだけの送別の宴はすぐに終った。月はなく昏《くら》い空だった。歌うものも酔うものもなかった。  その夜、玉井中佐と中島少佐は、二航艦の転進を見送って帰ろうとするところを、伝令につかまった。大西長官が二人を呼んでいるという。  大西は私室で待っていた。玉井と中島が「二航艦は発《た》ちました」と告げると、「うむ」と頷いただけで、すぐに口をひらいた。 「一航艦はこれから山籠りするわけやがねぇ。ただ、誰か一人は後に残って、神風特別攻撃隊の心は伝えなければならんよ。それには、君たちがいちばん適当だと思うが、玉井君は二〇一空の全員が山籠りする以上、司令の立場からいって都合が悪かろう。そこでやねぇ、中島君に比島から出てもらうのがいいと思うんやが、どうかね」  中島は、とっさに言葉が出なかった。やはり「二〇一空」の飛行長として、特攻隊を編成し、訓練し、見送り、起居をともにしてきた。その自分が部下をおいて、ひとり島を出るにしのびない……中島が声をのんでいると、大西がその先をいった。 「中島君の辛い気持もわかるがね。しかし、いまは私情をはさむ時ではない。特別攻撃隊のことは、内地のものにはどういうものか、実際には体験がないのだ。このことは、だれかがその真実を伝えねばならんのだよ。君が出るのがいやだというなら、命令を出す」  中島少佐は、ここで泣き出した。命令を出されては恥である。ひとり島を出るのは遺憾のきわみだ。しかし、涙をおとしながら「おいいつけにしたがいます」といわざるをえない。大西は中島の言葉をきくと、椅子から立ち上ってきて、彼の手を両手ではさんだ。 「ああ、これでよかった。よろしく頼みますよ」  中島少佐が比島における神風特別攻撃隊の編成並びに戦闘の経過を徹夜で二通書き上げ、一通は特攻隊員であった清水武中尉にわたし、もう一通は自分がもってマバラカットの基地を飛び立ったのは、一月八日の、しらしら明けの時刻であった。 [#改ページ]
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