特攻の思想
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第 七 章
負けない思想[#「負けない思想」はゴシック体]
戦争における勝者と敗者の原則は、勝者に視野の拡大がはじまり、敗者にその狭窄《きようさく》がはじまることである。
「神風特別攻撃隊」の出現は、たしかにアメリカの将兵に恐怖と混乱をもたらした。空中を火焔に包まれながら一直線に突入してくる特攻機を見て、あるものは泣き叫び、あるものは発狂して、艦内をころげまわった。
日本側は、大西中将以下、特攻機を発進させることによって、自己と国家の運命を同心円の関係におくことになった。
大西中将の心情に即していえば、特攻発進以後、三段階に変化している。
最初は、「勝機をつかむ」である。レイテ沖海戦に出撃してきた敵空母の甲板を叩き、航空機の発着をさまたげて、その間に艦隊決戦を挑むというプログラムがある。「短切なる時期をとらえる」、その手がかりが「特攻発進」であった。
レイテ沖海戦は終った。しかし、特攻発進は終らなかった。こんどは「勝たぬまでも負けない」という思想が起点になってくる。大西中将が比島で指揮をとったのは、昭和十九年十月十八日から昭和二十年一月八日までの二カ月半の間である。この僅かな時間に、特攻は百十五回も出撃している。
機数にして四百三十六機。特攻実施数百九十九機。未帰還機百四十六機(直掩機として出撃したものを含む)。これだけの犠牲を払って、戦果はつぎのとおりだ。
撃沈 撃破
空母及び軽空母 0 9
戦艦 0 3
巡洋艦 0 7
駆逐艦 2 15
特装空母 1 13
LST 3 1
その他 6 11
大西中将が、この間に「特攻を出すことに狃《な》れることをおそれる」と呟いたことは、たしかである。しかし、最前線の司令長官として、ほかに戦う術があったかとなると、もはや絶望的な状態に陥っていたのも事実だ。そこで「狃れまい」としながら、ほとんど日常的に特攻を発進させるのだが、その精神的起点は「勝たぬまでも負けない」に求められるのだ。
「勝機をつかむ」から「勝たぬまでも負けない」へ変化し、そして最後に「万一、負けたとしても、特攻が出たことの精神的意義において、国は滅びない」という心情が出る。
大西中将における心情の三段変化は、いいかえれば、価値目的の変化である。その終点に「勝敗」をこえて「国家」が出てくる。
一方、特攻攻撃を受けたアメリカ側はどうであったか。最初のうちは、恐怖と混乱に陥ったが、そのような将兵たちの個人的経験は、戦術の原理には組み入れられなかった。なぜなら、アメリカ側では「視野拡大」という勝者の原則が作動していたからである。
すでに、システムの概念を明確にしていたアメリカの頭脳は、特攻機と艦船の被害とを数値化し、防禦法と攻撃法とを効率の一点で連結させることに成功していた。
すなわち、特攻隊の攻撃を受けた場合、ジグザグの回避運動をしながら防禦砲火をあびせる場合の艦船の被弾率と特攻機の撃墜率をハジキ出し、一方では、回避運動をしないで直進しながら特攻機を攻撃した場合の艦船の被弾率と撃墜率も計算し、それをつきあわせた結果、直進した場合は撃墜率は七〇%台になるが、被弾率はジグザグ運動の場合とたいしてかわらないという「対特攻工学」を編み出していたのである。それと並行して、機動部隊に編成する艦船も小型化し、特攻隊の目標を小さく絞ってもきたのだった。
死場所を求めて[#「死場所を求めて」はゴシック体]
日本側が精神的な価値目的を変化させたのに対して、アメリカ側は戦術上の価値目的を変化させている。これが、実際の戦闘で、ますます彼我の差を拡大する原因になった。
大西中将が「万が一、負けることがあっても国は滅びぬ」といい出したのは連合艦隊の命令で比島から台湾にひきあげてからである。
大西自身は、なんとかして比島に留まり、そこを死場所≠ニしたかった。これは、猪口参謀の手記に明らかに出ている。彼は基地連合部隊を解体して、福留中将の「二航艦」を比島から引き揚げさせ、自分は「一航艦」をつれて山に籠り、陸戦の決意を固めたのであった。
昭和二十年一月六日、「一航艦」のパイロットたちは、持てるかぎりの武器・食糧を担いで、いちばん奥深い陣地にむかって歩き出した。そのさなかに連合艦隊命令が届いた。
一、二航艦を廃止し、現在二航艦所属の各航空隊を一航艦に編入す
二、一航艦の受持ち区域に台湾を加う
三、一航艦司令部は台湾に転進すべし
四、搭乗員および優秀なる電信員を台湾へ転進せしむべし
五、実施期日を一月八日とす
大西中将はこの電報を受け取ると、小田原参謀長と猪口参謀をよび、「どう思うかね」とたずねた。小田原はなにもいわなかった。かわって、猪口中佐が発言した。
「長官はすみやかに副官をつれて、比島から出て下さい。あとのことは、小田原参謀長以下私たちが、二六航戦司令官を補佐してやりますから」
大西はすぐ切りかえした。
「しかし、おれ一人では司令部とは言えないじゃないか」
「それは屁理窟です」
猪口は必死だ。
「われわれ幕僚も、出られるようになれば後から出ます。ここはとにかく、足もとの明るいうちに比島から出るべきです」
この間にも、電報が入ってくる。「実施日を早めよ」といってくる。猪口は電文を見ながら、「このようにいってくるのは、大西その人を生かしておいて仕事をさせよう、というところにねらいがあると思われます」といった。前年十一月下旬、大西長官に随行して東京に帰ったとき、人事局員と先任参謀に、「最後の土壇場をリードできる人物は、勝ちいくさも敗けいくさも知り、かつ、航空戦力のすべてに通暁している大西中将よりほかにいない」と力説したことが、この電文になっていると信じるところがある。
大西は、それが癖の、ちょっと下唇をつき出すような表情でいった。
「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」
「勝つ手はないかも知れませんが、戦わなければならぬ手が残っていますよ。海と空に力を入れても期待できぬ今日、残された点は潜水艦にあると思います」
「大西も早まったと言われてもねえ」
以上の会話は、猪口中佐の手記に出てくるものである。この段階で、大西は「勝つ手はない」といい、いかにして負けるかという思想に入っていることを物語っている。それから彼は、「自分には陸戦の自信がない。自分に自信のないことを、他人にまかせるわけにはいかない」と、比島脱出を拒むいい方をして、猪口中佐を手こずらせている。
苦い送別の酒[#「苦い送別の酒」はゴシック体]
結局、大西中将は二六航戦司令官の杉本丑衛少将、吉岡忠一参謀、近藤空廠長と相談を重ね、連合艦隊の命令に従うことにきめる。
比島に残るのは杉本少将、吉岡参謀をはじめ司令部直属の兵員だ。中本軍医大尉と大橋主計大尉がこれらの兵員をあずかることになる。大西は、すでに山に入りはじめた兵を集めるのに三日かかるときくと、「それじゃ三日だけここに居よう」といい張り、一月十日まで司令部から動こうとしなかった。
比島を離れる日の前夜、ささやかな送別の宴を張った。冷や酒が、去る者と残る者の盃に注がれた。元日の朝、南西方面艦隊司令長官(大河内中将)の許に年賀に出向いた折に貰った酒である。大西は、斗酒なお辞せず、というタイプである。その彼が、特攻発進後は、酒を求める声さえ出さなかった。たった一度、大河内中将のところから帰ったあと、従兵に注文したことがある。
「山本君、お酒を飲んでみようかな」
山本が一本つけ、南京豆を添えて出すと、大西は眼をつぶるようにして静かに飲んだ。
送別の宴の酒は、冷たく苦かった。大西は、特攻隊員を朝日山に集合させ、簡単な訓辞を与えた。
「われわれは、敗けて台湾に渡るのではない。おまえらもそのつもりで、比島から出てくれ」
出発は午前三時になった。
大西長官・小田原参謀長・猪口先任参謀・花本航空参謀・門司副官、それに甲板士官・庶務主任・従兵の八名が一行である。マニラの司令部を出てクラーク・フィールドにむかう途中、従兵の山本長三は夜空に片鎌の月を見ている。中天に冴えて、雲を薙《な》ぐかのようであったという。クラーク・フィールドのバンバン川に架けた橋は、空襲で焼け落ち、仮架橋が設けられていた。そこが、リンガエン湾にむかう陸軍部隊でごったがえしている。
「陸軍に言って、橋をあけてもらいましょうか」
門司副官がいうと、大西は「いいよ、いいよ、陸軍は急いでいるんだ、陸軍を先にやれよ」と、闇の中で言った。約三十分、大西長官一行はクラーク・フィールドの片隅に立ちつくした。その間に、全員が階級章をはずした。
「あと三日くらいで、朝日山に敵がくるでしょうな」
門司大尉が語りかけると、大西はなにも答えず、夜の闇に眼を放っていた。
乗用機の一式陸攻の前に、残留部隊の各級指揮官が見送りに来ていた。
「長官、お元気で」
「おお、すぐ迎えに来るよ」
大西は、ひとりひとりに頷きながら挨拶をかえした。この見送り風景の中を、ひとりの男がそそくさと立ち去った。A司令である。その場の雰囲気では、台湾に逃れるものへの不満と受けとられても仕方がない態度であった。
「A司令はおらんのか?」
大西は、ふと、気がついていった。背伸びして、人垣の中を探すふうであった。
「壕舎にかえっておりますが」
「なにィ?」
大西の眼が光った。「呼んで来い、すぐ来るようにいうんだ」
下士官が駈け足で迎えにゆくと、A司令が不機嫌そうな顔をして見送りの輪に戻ってきた。大西はその顔に猛烈な一撃を加えた。
「貴様、俺が逃げ帰ると思っているのか!」
この言葉は、おそらく彼が残留部隊の将兵にいちばん聞かせたい言葉であったろう。大西は、A司令を撲ってその言葉を吐くと、こんどはきめつけるようにいった。
「そんなことで戦争ができるか」
「わかりました」
A司令の緊張した声が聞こえた。夜の闇に一式陸攻のプロペラが鳴り出した。大西中将の一行は、ゆっくりとタラップを上った。
もし射ち落とされていたら[#「もし射ち落とされていたら」はゴシック体]
一式陸攻は、アメリカ空軍からライター≠ニ綽名された飛行機である。すぐに火がつくという意味だ。司令長官の移動には最も危険な乗りものだが、その夜は護衛機さえついていなかった。そのうえ、「敵機動部隊、高雄方面に来襲」との報が入っている。猪口参謀は気が気ではなかった。グラマンに見つかったら、ひとたまりもない状況である。しかし、大西は平然として、乗機の前方部に座を占めている。ひと言《こと》も発しなかった。
一式陸攻は密雲の上を飛んだ。高雄上空にさしかかって夜が明けた。が、密雲のため着陸地点がわからない。操縦士が雲の切れ間を探した。南にまわり、北に反転しているうちに、飛行機はショックを受けた。味方の高射砲が、敵機と間違えてさかんに射ちまくってくるのだ。門司大尉が、その動揺の中を、魔法瓶に詰めた緑茶を注いでまわった。彼は、気流が悪くて飛行機がゆれるものとばかり思っていたのだ。大西は、門司が注ぐ日本茶を眼を細めて飲んだ。
後日、大西は高雄上空の思い出話が出ると、「あの時、射ち落とされていたら、今頃、こんなに苦労をしなくてもよかったのになあ」と、何度も洩らしている。
比島引き揚げのあと、大西の心情は重さを増すばかりである。「特攻」を発進させたことには、「これは統率の外道なんだ」という自責の念がある。司令長官としても個人としても、心理的にはいたたまれない気持であろう。
大西は、海軍次官の多田武雄中将と親交があった。大西には子種がなく、しばしば周囲のものに、「俺の家は二重の無産階級だ」と、冗談を飛ばしている。それだけに、多田の息子の圭太を赤ん坊のときから可愛がり、「ちょっと抱かせろよ」と、松の枝のような腕の中で圭太を眠らせた。
その多田圭太が海兵を卒業し、海軍航空隊員として比島に出陣した。大西の発令で、彼も特別攻撃隊に編入され、「神風特別攻撃隊第二朱雀隊」の隊長機に乗った。僚機は、「戦三一三」の伊藤忠夫二飛曹である。
出発に先き立ち、多田圭太海軍中尉は大西を長官室に訪れている。十月二十六日の夜のことで、大西はそのときの模様を、かなりくわしく矢次一夫に語っている。
――ある夜、外から俺の部屋のドアをノックし、「オッチャーン」と飛び込んできたやつがいる。ハッとしてみると、多田の息子の圭太で海軍中尉だ。べッドの前で挙手の礼をすると、「これから行って参ります」といった。俺がおどろいて「元気でやれよ」といってやると、圭太はすぐ部屋を飛び出していった。俺も思わず圭太のあとから飛び出すと、圭太の影が月明の中をどんどん走ってゆくんだ。それからまもなくして(十一月十九日)「多田中尉、いまより敵艦に突入す」という無電が入った。俺は、多田とは親友だし、圭太は子どものときから寝かせつけたり、相撲をとってやったりした仲なんだ。だから、このときは、じつに熱鉄を飲む思いがしたよ。それから、俺は軍令部次長になって多田といっしょに仕事をしてきたが、多田のやつは圭太のことを俺にひと言もきかないんだ。俺も、ついに口に出せなかったが、ずいぶん辛《つら》かったよ……。
矢次は大西の話を聞きながら、「ああ、大西は死んだら自分に代って多田中将に話してくれ」といっているんだな、と思った。大西自刃の日、枕頭にかけつけた多田夫妻にそのことを話すと、多田は瞑目し、夫人は泣き崩れた。
「洞窟の中で討死やぜ」[#「「洞窟の中で討死やぜ」」はゴシック体]
このエピソードは、大西中将が個人的な心情を洩らした唯一のものである。「特攻」を発進させた司令長官として、無論、私情を口にすることはできなかったわけだが、彼の胸中に悲傷の蟠《わだかま》りになっていたことは疑いない。
そのうえ、比島に残留部隊をおいてきている。にわか仕立ての陸戦隊である。米軍の攻撃にさらされた場合の惨状は誰にでも想像がつく。しかも、大西の軍人としての真意は裏切られて、彼が先に比島から帰そうとした二航艦の将兵たちは、搭乗員をのぞいて、全員が比島の山中に入ることになったのだ。
二航艦の司令長官・福留繁中将の従兵であった今北正春一等兵曹は、大西長官の一行に運よく便乗して、二カ月ぶりに高雄の土を踏んだが、出迎えに出た足立保の顔を見るなり、「比島は、今、えらいとこや」といっている。
「どうしたんだ」
「二航艦が解散してな、地上員は全員山籠りしているんや」
今北はそういうと、「みんな、きっとバンバンの洞窟の中で討死やぜ」と声を落とした。
大西は、二航艦の運命をも背負って、高雄に降り立っている。「特攻発進」に重ねて「比島での置き去り」、これが「山本五十六長官亡きあとの海軍のホープ」と若手の将校から仰がれた男の、心理的座標である。
終戦処理をめぐって、大西中将は「徹底抗戦」の最右翼にあったことは後に紹介するが、この大西の態度には彼の「国家観」のほかに、比島以後の心理的座標がすえられているように思われてならない。もちろん、客観的には愚かしい動きである。
高雄飛行場から北へ二キロゆくと高雄警備府があり、さらに二キロ北上すると小崗山《しようこうざん》という小高い山があった。そこに司令部の壕舎が設営されている。大西の一行が高雄飛行場を出ると、猛烈な空襲がはじまった。昭和二十年の年が明けて、はじめての空襲だった。
アメリカ軍は機動部隊から攻撃機を発進させているだけではなかった。中国の奥地から、B29の編隊を飛ばしてもいるのだ。つぎの戦局を沖縄方面にきめて、台湾を封殺《ふうさつ》しにかかっている。ところが、台湾における航空兵力はみじめなものだった。猪口中佐によると、旧練習航空隊所属の練習機と練習生が主体で、これに比島にむかう途中の飛行機を加えたものが兵力であったという。
もちろん、第一航空艦隊司令部は連合艦隊に対して、航空機と搭乗員の補充を要請したが、連合艦隊司令部は敵の次期の進攻地域を沖縄と予想、主たる航空兵力を九州方面に配備したため、台湾には百機しかまわしてよこさなかった。しかも、この百機も「陸続と到着」というわけにはゆかない。アメリカ軍の南西諸島攻撃によって、空輸はしばしば中断され、雨垂れ的にしか飛来していない。
大西中将は、再び、特攻を決意する。一月十八日、台南部隊にある零戦と彗星艦爆を主体として、台湾最初の「神風特別攻撃隊」が編成された。同日午後五時、大西長官はみずから台南航空隊の中庭に立った。
「本攻撃隊を神風特別攻撃隊新高隊と命名する」
長官はいった。爆装機十機、直掩機八機の編成である。直掩機はすべて零戦だが、爆装機は彗星艦爆が六、零戦が四になっている。春に先がけて散る者は、ほとんど二十歳前後である。ベテラン・パイロットの不足が、戦技には未熟な若者を「特攻」に乗らせたのだ。
「俺なんか絞首刑だな」[#「「俺なんか絞首刑だな」」はゴシック体]
大西は、若い隊員の顔を見まわすと、こういった。
「この神風特別攻撃隊が出て、しかも万一負けたとしても、日本は亡国にはならない。これが出ないで負ければ真の亡国になる」
猪口中佐は、この長官演説を聞いて「ちょっと、おかしいな」と思った。軍人に与えられた原理は、「必勝の信念」である。あらゆる手段を尽して勝とうとし、また、それが求められている。しかし、大西中将は司令長官という位置から、「負けたとしても」という言葉を使ったのだ。
軍人でさえ「おかしい」と思ったのだから、新聞記者の戸川幸夫が、「これは大変だ」と直感したのも当然である。彼は、長官の言葉をそのまま内地に打電した。司令部には通さなかった。ところがこれが新聞に載ると、台南航空隊の参謀たちは烈火の如く怒った。
「戸川記者をフィリッピンに送り返す」と強弁するものも出た。
大西は黙っていた。さわぎは副官の門司大尉の取りなしで収まったが、その後、戸川が大西に顔をあわせても、大西はなにもいわなかった。比島にいたときよりも、沈黙の時間が永くなっていった。
あるとき、食事の時間にイタリアの戦犯ニュースが伝わってきた。大西はそれを聞くと、会食していた将校たちの顔を見まわして、いった。
「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾奇襲に参画し、特攻を出して若いものを死なせ……悪いことばかりしてきた」
それから副官にきいた。
「貴公は腕が立つか? 剣道はできるか?」
「さあ、それほどは」
「俺の骨は太いよ。介錯《かいしやく》するときに、骨が折れますよ」
しかし、終戦の翌日、大西は自刃するに際して、介錯人をおかなかった。深夜にひとりで割腹し、頸動脈を切り、心臓をつらぬき、それでも明け方まで息があって、駈けつけた多田中将や児玉誉士夫に「介錯不要」といっている。「できるだけ永く苦しんで死ぬのだ」、これが理由である。この言葉に説明はいるまい。
「大西瀧治郎伝」の台湾の部分を読んでみると、彼の特攻隊員に対する訓示は比島時代にくらべて長くなり、「死とはなにか」に言及している。ことに、大西中将が第五基地航空部隊指揮官として、昭和二十年三月八日、「台湾各基地実視に際して」与えた訓示は、おそろしく長く、訓示というより自己確認の言葉のように思われるものだ。大西は、この冒頭に「開戦前からアメリカに対して勝算がないことはわかっていた」と断言している。
「米英を敵とする此の戦争が、極めて困難なもので、物質的に勝算の無いものであることは開戦前からわかっていたのであって、現状は予想より数段我に不利なのである。然らば、斯《か》くの如き困難な戦争を何故始めたかと言えば、困難さや勝ち負けは度外視しても、開戦しなければならない様に追いつめられたのである。敵の圧迫に屈従して戦わずして精神的に亡国となるか、或《あるい》は三千年の歴史と共に亡びることを覚悟して、戦って活路を見出すかの岐路に立ったのである。そこで、後者を選んで死中に活を見出す捨身の策に出たのである」
このあと、大西は「捨身の策」は|やみくも《ヽヽヽヽ》のものではなく、武力戦ではとてもかなわぬアメリカを長期持久戦にひきずりこんで、思想戦で勝とうとするものだ、と強調する。アメリカがおそれるのは人命の損耗で、そのために強大な物量の武器を用意したというわけだ。だから、われわれはこれをおそれず、日本人全体が特攻となり、人口の五分の一くらい死ぬ覚悟でぶつかれば、アメリカは人命損耗をおそれて必ず手を挙げる……。
「私は、比島に於て特攻隊が唯国の為と神の心になって、攻撃を行っても、時に視界不良で敵を見ずして帰って来る時に、こんな時に視界を良くすることさえ出来ない様なれば、神などは無いと叫んだことがあった。然し又考え直すと、三百機四百機の特攻機で、簡単に勝利が得られたのでは、日本人全部の心が直らない。日本人全部が特攻精神に徹底した時に、神は始めて勝利を授けるのであって、神の御心は深遠である。日本国民全部から欧米思想を拭い去って、本然の日本人の姿に立ち返らしめるには、荒行が必要だ。今や我が国は将来の発展の為に一大試練を課せられて居るのである。禊《みそぎ》をして居るのである」
このあと大西は、日本はガダルカナル以来敗北に敗北を重ねているが、アメリカは「強弩《きようど》の末|魯縞《ろこう》を貫かず」という言葉があるように、その力は次第に貫通力を弱めている。だから、ここで何年も何十年も日本が頑張れば、アメリカは必ず倒れるにちがいない。だから、われわれは必死の力をふり絞って、アメリカの力を弱めよう。大西は、「アメリカは人命損耗に精神的に耐えられない国」という前提を設けて、その視点から「武器は手段」であり、「忠死」が勝利の鍵であると説く。
「現状認識」プラス「忠死」[#「「現状認識」プラス「忠死」」はゴシック体]
「百万の敵機が本土に来襲せば、我は全国民を戦力化して、三百万五百万の犠牲をも覚悟して之を殲滅《せんめつ》せよ。三千年の昔の生活に堪《た》える覚悟をするならば、空襲などは問題ではないのである」
日本にとっても、「武器は手段」にすぎない。大西は、そのことにも言及する。
「航空部隊は、航空戦力を最大に発揮するのが其の任務であるのは勿論であるが、然し、従来の経験からすると、敵の攻略に当って全力を以て船団を攻撃する時は、二、三百機の飛行機も二日位で使いつくし、三日目位には十機内外が残るのみとなるのである。此の後は、一万数千の地上員の大部は地上戦闘員として、成るべく多くの敵を殺さなくてはならないのである」
この訓示は、さらに延々と続き、最後を「各自、定められた任務配置に於て、最も効果的な死を撰ばなければならない。死は目的ではないが、各自必死の覚悟を以て、一人でも多くの敵を斃《たお》すことが、皇国を護る最良の方法であって、之に依って、最後は必ず勝つのである」という言葉で結んでいる。
この訓示には、大西が「特攻」を思想化しようとする努力がよくあらわれている。私は、その部分を引用したつもりであるが、読んでわかるように、彼の思想化の作業にはひとつのパターンがある。
まず、現状認識がくる。つぎに「忠死」が接続される。その繰り返しである。
たとえば、米英との戦争に勝味がないことは開戦前からわかっていた、という大胆な発言をする。つぎに「死中に活を見出す捨身の策」を揚言する。
「三百機四百機の特攻隊で、簡単に勝利が得られたのでは日本人の心が直らない」と、否定的なことをいい、つぎに「日本人全部が特攻精神に徹底した時に神ははじめて勝利を授ける」と、死を接続させる。
この思考の手続は、「諌死《かんし》」や「憤死」のように、「死」に最大の効果を託しようとする日本的思考を土壌としているのではないか。戦争中、軍人はもちろん知識人の間でも、山本常朝の「葉隠」がさかんに読まれ、「聞書一ノ二」の「武士道トハ死ヌコトト見付ケタリ」「二ツ/\(生死)ノ場ニテ早ク死ヌカタニ片付クバカリナリ」が、非常時下の「生の哲学」として認識された。死ぬことによって生を完成させるという、甘美な響きを伴いながら「大死一番」という言葉もさかんに使われた。
しかし、この「葉隠」の解釈は、便宜的といって悪ければ、一面的なのではないか。「二ツ/\ノ場ニテ早ク死ヌカタニ片付クバカリナリ」は、死に最大の効果を託す思想ではなく、河上徹太郎氏が指摘するように「そうしなければ生が|なまくら《ヽヽヽヽ》になる」からであり、漫然たる生を|より《ヽヽ》鮮烈な生に蘇生させるための哲学ではないかと思う。「生き切る」ことの裏側に、その最大の反対概念である死と直面させたという解釈が「葉隠」にあってもよかろうと思われる。
そうでなければ、「現状認識」プラス「その打開策としての死」という方程式が、いつでも許されることになる。国家主義思想の持ち主が「憤死」するのも、極左の青年が身を挺して文明社会の一隅を焼くのも、現世的な自己の位置を否定したあとで、ひとつの「価値」として蘇ることを信じている点では同一ではないか。実際は「死」によって論理や心情は停止され、彼が予想した「効果」は生の側にあるものと交換性を持ちえなくなるのだ。
狭窄化した敗者の視野[#「狭窄化した敗者の視野」はゴシック体]
大西中将の「百万の敵機が本土に来襲せば三百万五百万の犠牲をも覚悟して之を殲滅せよ」という言葉は、死後の効果の密度に対する壮烈な挑戦である。
「葉隠」はいう。
「毎朝毎夕、改メテハ死ニ死ニ、常住死身ニナリ居ル時ハ、武士道ニ自由ヲ得、一生越度ナク、家職ヲ仕果スベキナリ」
この「死生観」にくらべると、死後に生じる価値から逆算される思想は、思考の粘着力が足りないように思われてならない。大西中将の台湾における訓示は、「特攻の思想」を心情の画用紙いっぱいに描いたかの感がある。「大西郷を科学したような男」といわれた大西が、その生涯の末期にこのような思考方式を発表したのは、彼の心情に「特攻発進」が大きな屈折を与えたからであろう。
前にものべたように、大西の「特攻発進」の目的は、「短切なる時期に勝機をつかむ」「勝たないまでも負けない」「負けても、特攻発進があれば、国は滅びない」の三段階に変化している。最後の段階では、「精神的亡国」の屈辱だけは回避したいと願っている。日本は、もともとそういう国ではないという、国家に対する哀切な認識がある。
この認識の裏側に、アメリカは「明確な戦争目的を持たない国」で、「人命の大なる損失は、忽ち国内で大なる物議を醸し、戦争の遂行に心配がある国」という設定がある。だから、特攻はアメリカ人に対して効果があるということになる。大西が、この点を本気で考えていたかどうか、私には疑問である。むしろ、「特攻の効果」を強引に「アメリカの敗戦思想」に結びつけようとしたように受け取れる。
「特攻」はいうまでもなく、最後の手段である。これ以上の手はない。大西が比島で特攻を発進させて以来、帝国陸海軍はこの「最後の手段」のところで足踏みをはじめたのはいうまでもない。敗者の視野は狭窄化《きようさくか》するばかりだ。
アメリカは、たしかに「人命損耗を苦痛とする国」であった。「之の代りに厖大な物量を以てせんとするもの」であった。しかし、問題は「物量」と同時にその「運用」を考える国でもある。「手段」を発展させる力があった。これが、オペレーションズ・リサーチ(OR=運用研究)という作業を産んだ。
アメリカ海軍は、最初ドイツ潜水艦に対するORを行なった。これには先例がある。イギリス海軍がその痛い経験から、爆雷が海中で爆発する深度を研究していた。その結果、海中百フィートで爆発させるよりも、二十五フィートで爆発させるのが最も効果的だとの結論に達した。ところが、当時の信管技術は三十五フィートの爆発深度しかえられない。そこで、その深さでやってみると、潜水艦の撃沈数は一挙に四倍にはねあがった。このように、新しい技術の開発に金や時間をかけず、在来のものの運用の仕方をかえるだけで効果をあげることを、オペレーションズ・リサーチというのである。捕虜になったドイツ潜水艦の乗組員は、「爆薬が二倍にふえたのかと思った」と述懐したそうである。
非常手段の日常化[#「非常手段の日常化」はゴシック体]
アメリカ海軍は、対潜作戦の研究から出発したが、日本の特攻機に遭遇するにおよんで、この防禦策のORに手をつけた。彼らは、攻撃を受けた艦艇がどのような運動をすればよいかを四百五十の例で分析した結果、たとえば小艦は対空火器の命中率をあげるために、ゆっくりと運動し、さらに被撃直前に艦首を捻ることを勧告された。相撲でいえば肩透かし≠ナある。
このORが東南太平洋の全艦艇に伝達されて以来、日本の特攻機の戦果は四〇%も低下してしまったのである。
「大西瀧治郎伝」の著者は、「戦後米海軍から発表された文献を綜合すれば特攻命中機は四百五十機に上っている。この数字は海軍特攻機総数二千四百五十機の実に一八%強に当り、これに陸軍特攻機五百機(実際は千機。うち海上の目標に突入したものを約半数とみる)を加えた海陸軍合計二千九百五十機としても、命中率は、一五%強に相当する。平時演習に於ける命中率は、数十%の好成績を示すことも少なくないが、砲弾雨飛の実戦場裡に於ては、統計上二%内外といわれる。航空爆撃にあっても大同小異である。特攻戦果は殆どその十倍に当るのである」と書いている。そして、「もとより、特攻の是非善悪やその価値判断を、戦果の多寡に求めるのは当らない。特攻の真の批判は、形而下《けいじか》の戦果にあるのではなく、形而上の問題にあるのであって、その裁断は後世史家の厳正なる史観にまつべきであろう」と結んでいる。
たしかに「特攻戦果は十倍」なのであるが、その「価値判断」は、一方が特攻という非常手段を単に反復していたのに対し、他方はその対応策を積極的に展開していた、そのポイントにも求められるべきではないか。いや、さらに問題なのは、特攻という「非常手段」が、「日常手段」になっていったことであろう。
この「日常手段」の中で、多くの若者が死んでいった。彼らは、ほとんど自分が死ねばアメリカも戦争をやめる、とは思っていなかった。「日本が精神的亡国から救われる」という自負心もなかった。ある学徒出身の特攻隊員は、鹿屋の基地に川柳をのこしている。
勝敗はわれらの知ったことでなし
彼らは「皇国の礎《いしずえ》となるために死ぬ」と書いているが、それは戦争末期に二十歳前後となった人間の、精一杯の生き方でもあったと思う。彼らの遺書が、父母や兄弟姉妹への限りない優しさに満ちているのは、そのような死=生き方しか選べなかった人間の真情であろう。
たとえば、猪口力平・中島正共著「神風特別攻撃隊の記録」の中で、神風特別攻撃隊・第二・七生隊の海軍少尉林市造(京大出身・昭和20・4・12、沖縄方面で戦死)は、鹿屋基地で「母への便り」を書いている。電灯がないので焚火《たきび》をして書いたという。
「……必ず必中轟沈させてみせます。戦果の中の一隻は、私です。最後まで周到に確実にやる決心です。お母さんが見て居られるに違いない。祈って居られるに違いないのですから、安心して突入しますよ」
「お母さん、ぐちをもうこぼしませんから、お母さんも私についてこぼさないで下さいね。泣かれたとてかまいませんが、やっぱりあんまりかなしまないで下さい。私はよく人に可愛がられましたね。私のどこがよかったんでしょうか。こんな私でも少しはとり得があったんだなあと安心します。ぐうたらのままで死ぬのは、やはり一寸つらいですからね。敵の行動にぶり、勝利は我々にあります。私達の突込むことにより、最後のとどめがさされましょう。うれしいです。我々にとりて生くるはキリストなり、死するも又キリストなりです。これが誠に痛切に思われます。生きているという事は有難い事です。でも今の私達は生きていることは不思議です。当然死ぬべきものなのです。死ぬことに対して理由をつけようとは思いません。ただ敵を求めて突入するだけです。(後略)」
生き残ってはならない若者[#「生き残ってはならない若者」はゴシック体]
ことわるまでもないが、特別攻撃隊員になることは強制ではなくて志願の形をとっている。それは形式上のことで、当時の雰囲気からいえば、「志願をしない」という選択は、ほとんど許されなかったろう。若者たちは「志願」をしたときに「死」を選んでいる。いや、航空隊を志願したときに、「生きること」をやめている。この心理構造を最も深く洞察したのは、川副武胤の「天意の死」というとらえ方ではないかと思う。
川副は「学徒出陣の記録」(あるグループの戦争体験)の中で、三高時代の同期生であった江口昌男と林尹夫が、性格は正反対といっていいほど違い、しかも二人とも運動神経が鈍かったにもかかわらず、海軍予備学生に応募して航空隊に入り、ともに戦死したことを語って、つぎのように結んでいる。
「エッケルマンとの対話であったか、ゲーテはモーツァルトの死について、それを天の意志であるかのように語り、天才の死の必然を逆説的に説明したが、私もまた、この二人の死にそのような意味を附したい。彼らはこの世に生き残ってはならなかった人間であるような気がしてならない」(「若くして逝ける者たち」抜萃)
大西中将の「特攻の思想」と「天意の死」を選んだ若者の思想の交点は、ついに「国家」の一点でしかない。
昭和二十年一月十五日に、「第一新高隊」が発進して以後、特攻はひき続き行なわれるのだが、戦局の進展とともに、「特攻」は大西中将の部隊のみではなくなる。
二月十六日、有力なアメリカ軍の出足はいよいよ速くなり、硫黄島に殺到した。関東方面に展開していた「第三航空艦隊」はすぐさま迎撃したがたいして効果はあがらなかった。米機はわが物顔に本土を襲い、損害を与えてゆうゆうと引きかえしてゆく。
ついに、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将は特攻を決意、六〇一空司令の杉山利一大佐に編成を命じた。寺岡中将は、かつて比島で一航艦をひきいていたとき、第二六航空戦司令の有馬少将から何度も「特攻編成」の進言を受けながら、これを却下していた人物である。二月十九日、茨城県の香取基地で、「第二御盾特別攻撃隊」が編成された。隊長は村川弘大尉である。
二十一日発進。いったん八丈島に着陸、補給したのち、正午ごろ再び舞い上り、一直線に硫黄島に殺到した。
零戦十二、艦爆十二、艦攻四、雷撃機隊四の総計三十二機である。
硫黄島東方海上に目標を発見。隊長機がバンク(翼を振る)する。つぎつぎに突入。この「第二御盾隊」は夕刻までに、空母一隻を撃沈、同二隻を撃破、貨物船一隻、上陸用舟艇二隻に損傷を与えている。
敵は見つからず[#「敵は見つからず」はゴシック体]
「特攻」は、もはや大西中将の領域から無制限に拡大しはじめたわけである。当時、海軍の航空兵力は、五航艦六百(本土西半部)、三航艦八百(本土東半部)、十航艦四百(本土各部)、一航艦三百(台湾)の合計二千百機である(もっとも、朝雲新聞社の「沖縄方面作戦」によると、一航艦・三航艦・五航艦とも実数はつかみにくく、十航艦は七百機から千機とみてよいように書かれている)。このうち十航艦は搭乗員が錬成途上で、とても戦線に出せる程度ではなかった。しかし、アメリカ軍の進攻のスピードは、搭乗員の錬成のスピードよりも速かった。そのため、十航艦の練習生≠スちも、小型艦艇に対する攻撃要員にまわされたのである。ところが、前に紹介したように、アメリカ側はORによって、小型艦艇は肩透かし法≠使い、そのうえ対空砲火の密度も上げていた。結果は「飛んで火に入る夏の虫」になったことはいうまでもない。
大西中将の第一航艦司令部も、小崗山の壕舎を出て新竹に移動した。沖縄が決戦場になるにつれて、発進基地を近づけたと見てとれる。しかし、じつは一航艦側に切実な事情があった。
参謀長であった菊池朝三少将によると、一航艦には満足な飛行機がなく、練習機まで索敵機として使用しなければならない事情にあったという。練習機は航続距離が短い。そこで、すこしでも沖縄に近寄ろうと基地を移したのである。だが、それもあまり効果はなかった。練習機であれ実用機であれ、搭乗員の索敵能力が落ち、目標を発見できぬ日が多かった。小崗山のときもそうであったが、新竹に移ってからも、無聊《ぶりよう》の日が続いた。「敵も見つからず、見つけても満足な飛行機は持たず」という状態は、誰にもはっきりわかっていた。ただ、誰もそれを口にしなかっただけだ。日本が敗戦の淵に落ちこんでゆくのを、心の中でわかりながら、無聊に耐える日々である。
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