特攻の思想
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第 八 章
児玉君のウィスキー[#「児玉君のウィスキー」はゴシック体]
台湾の壕舎は暗かった。
新竹基地に移動してすぐ、アメリカ空軍の空襲があり、基地の防空壕に一トン爆弾が命中した。司令部は直ちに基地前方の赤土崎《せきとざき》という小高い丘に移った。
春が来て、丘から見下す町に、思いがけない明るさで花が咲いているのが見えた。
「つぎは、沖縄だな……」
誰もが、いちどは口に出していうようになった。
大西は、しきりに比島に残して来た部隊を思った。台湾へ移動した当初、毎日のように偵察機が飛んで、クラーク・フィールドの状況を見て報告した。
「きょうも、クラーク基地に日章旗を振るものが見えました」
「そうか……」
大西は、すっかり憔悴《しようすい》した頬にわずかな笑みをうかべた。が、やがて偵察機の搭乗員はなにも報告しなくなった。
二十年の年が明けると、偵察機が近よることもむずかしくなった。ある日、大西は従兵を呼んだ。
「児玉君がくれたウィスキーがあるだろう。あれを比島に送りなさい」
従兵が戸惑った顔をしていると、彼はすこしいたずらっぽくいった。
「カボチャや大根のタネが入った袋があるでしょう。あれにウィスキーを入れて、しっかり口をしめるんだ」
それから、彼は比島に残った杉本司令官に手紙を書き、ウィスキーの袋につけるように命じた。
「敵の手に渡っても、べつに軍事機密は書いてないからな。だいじょうぶだ……」
そういう日常の中を、新竹基地から特攻隊が発進していった。搭乗員は離着陸がやっとできるくらいの、若いパイロットである。
風防ガラスの中で、真白な歯をちらっと見せて、レバーを一気に吹かして発進するものがあった。腕を上下に振って別れを告げるものがあった。服に桃の花を插してゆく若者もいた。
滑走路に並んで見送る将兵たちは、滅茶苦茶に帽子を振った。振らなければ、涙があふれてくることが、誰にもわかっていた。
大西は、司令部に共通の宴会を一切やらなくなった。たまにくつろぐときは、歌のうまい菊池朝三少将に「暁に祈る」を歌わせ、じっと眼を閉じて聞き入っている。
彼は、壕舎の中を下駄ばきで歩いた。ひとつには水虫が悪化したこともあるが、なにか捨て鉢のような仕草が感じられた。
四月一日、ついに米軍が沖縄に上陸を開始した。
陸軍と海兵隊の精鋭、合計七個師団で約十二万。わが第三二軍と陸戦協力隊の約二倍である。機動部隊と航空兵力の戦力を評価すると、わが方の七倍半。火力に換算すると十数倍の圧倒的進攻作戦である。
鹿屋から「菊水特攻隊」が発進した。海軍からは十三期、十四期の予備学生、陸軍からは特別操縦見習士官の二期生、三期生が、わずかな生を一瞬にかけて突入した。
海軍はさらに第二艦隊に「水上特攻」を命令、また前年以来訓練を重ねてきた「桜花」も投入された。一式陸攻の腹につけられた「桜花」は、高度六千メートルで切り離され、三万メートルの射程距離を死にむかって飛翔《ひしよう》した。千八百キロの爆薬が一人の人間とともに空から落ちてゆくのである。
戦場むきの人間[#「戦場むきの人間」はゴシック体]
四月十七日、大西中将に海軍軍令部次長が発令された。小沢治三郎中将の後任である。これは、あきらかに政治的発令であった。
当時、海軍内では海軍省と軍令部とが和平≠めぐって決定的に対立していた。大づかみにいうと、米内海相を頂点とする省部≠ヘ和平工作に傾き、豊田軍令部総長を頂点とする令部≠ヘ戦争継続を主張していた。
矢次一夫の回想によると、大西を東京によぶ決定を下したのは岡田啓介大将であろうという。
しかし、当の岡田はもちろん、誰も大西を軍政の人物≠ニは見ていなかった。大西自身も、軍需省から比島の第一航空艦隊司令長官に転出させられたとき、送別の宴席で矢次に「おれは戦場むきの人間だよ」と語っている。
ただ、海軍部内で戦場むきの人間≠必要とする空気があったのである。
二十年の一月のことだ。矢次が酔っ払って松平康正を訪れた。玄関先で辞去するつもりでいると、戸塚道太郎中将が来ていて「あがれ」といった。戸塚は大野藩の士族の出で、昔の殿様≠ノ挨拶に来ていたわけだ。
戸塚と矢次はへべれけに酔って、岡田邸の門を叩いた。深夜の訪問であったが、岡田は起きてきて二人をもてなし、「大西をつれてきて戦わせんといかんな」といった。
「陸軍には阿南あり梅津ありだ。しかしわが海軍で大臣のつとまるヤツは小沢、多田、伊藤くらいなものだ。戦争を続けるにせよ、和平の手を打つにせよ、若者を戦地におくりこめるだけの魅力ある人物は、大西しかおらんよ」
矢次は、酔いも醒める思いで、岡田の言葉を聞いている。
昭和二十七年、横浜市鶴見の総持寺で大西の墓の建立式が行なわれたとき、矢次は墓の前に立って、参集した元海軍軍人にこういった。
「大西という男はバカな男でした。豊田副武大将は、東京裁判の法廷で大西の徹底抗戦論は部内の不満分子を抑えるために許したのです≠ニいっている。まことに、それに踊らされた大西はバカです。高木惣吉少将は大西を愚将だといいましたが、彼はまったく貴重な愚直さを持っていました。彼を軍令部という金魚鉢に入れたのは、鉢の中にナマズを入れたようなものです。なぜなら、大西という男は、たとえ日本が勝っても腹を切るような男だからです」
大西が「踊らされる」ことを意識していたかどうかは、はっきりしない。むしろ、後に述べるように、彼はそういうことを意識せず、彼なりの考えで行動したといった方がよさそうである。
「さらに二千万人が戦死すれば、日本には名誉ある和平がやってくるでしょう」
彼は力説した。このプログラムに正気≠ヘ感じられない。まさに狂気≠ナある。しかし、彼は狂気≠正気でやったのではないかと思う。狂気という規範を超えたものがなければ、彼の認識する敗戦・日本≠ヘ考えられなかったのである。
規格からはみ出す部分[#「規格からはみ出す部分」はゴシック体]
大西は「戦う将官」として海軍の組織の中に組みこまれてしまった。本来は頭脳的な男で、自分のプログラムを持ち、それを行動に移して、つねにリーダーシップをとる立場に立ってきた。それが、戦争の収拾の局面では最右翼≠フ要因として組みこまれてしまったのである。人間の社会集団の不思議さともいえる。
この男の人間的規模には、いつも規格からはみ出し、あふれている部分がある。そういう部分を産むことによって、逆に規格そのものを生命あるものにしようとする狙いさえ感じられる。
大西は、かつて部下の福元秀盛に手紙を送って、所信を述べている。
「海軍航空は小生の生命にして、之が健全なる建設発展の為には、小生個人の名誉等は何等問題に無之、又小生の信じて行はんとする所は、御聖旨に合致しありとの信念を有し、何物も恐れず候」
彼はこの所信のとおり、「何物も恐れず」といったことを、つぎつぎと敢行している。
実技でいえば、新竹の舶来水上機にこっそりと試乗し、島影でスタント(特殊飛行)をやってみたり、飛行船を操ってみたり、まったく生命がいくつあっても足りないような実験をこなしている。
また、それをもとにして綿密な「飛行訓練計画」をたてて軍令部に上申、部内に衝撃を与えてもいる。
「一花はひらく天下の春 一波は動かす四海の波」とは、彼が好んで色紙に書いた辞句であるが、彼自身が尉官の頃から一花≠スろうとし、一波≠スらんと努めるところがあった。
飛行機の操縦もそのあらわれだが、大正五年、まだ海軍中尉のときに、「中島飛行機」の創立に奔走《ほんそう》して、譴責《けんせき》をくった記録がある。
この年、中島知久平機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、複葉の水上機を設計した。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。
中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、しかもそれは民間製作でなければ不可能であるとの結論を得た。これを大西中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと奔走しはじめた。当時、大西は同期生にこう語っている。
「中島知久平さんが海軍をやめて飛行機製作会社をつくりたいといっている。なかなかの奴だから是非実現させてやりたいが、資本主が見つからないで困っている。おれは、阪神で資本主を探すつもりだ」
彼が、真先に飛びこんだのは山下亀三郎の事務所である。山下を前にして、飛行機の将来を論じ、国産の必要を説き、中島への支援を懇請した。山下は、手元の「海軍中尉 大西瀧治郎」という名刺と、目の前で滔々《とうとう》とまくしたてる士官の顔を見くらべながら、眼を白黒させた。大西の演説が終ると、山下はいった。
「あなたが渋沢栄一さんならカネは出してもいいが、海軍中尉ではとても出せませんよ」
山下は資金提供をことわったうえ、海軍省に照会したため、大西中尉は出頭を命じられ、「軍人に賜わりたる勅諭」を三回暗誦させられてから始末書をとられた。
中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内でそうとうな問題になった。当時の軍人は一身上の都合≠ナは退職できないことになっている。そのうえ、海軍には日本海海戦以来の「大艦巨砲主義」が根強い思想になっている。一方では、中島のような優等生を離すまいとする考え方と、他方では「海軍のカネを使って勉強しておきながら、私的会社をつくるとはけしからん」という非難がまきおこった。
大西も、このときは軍籍をはなれて中島の会社に入ろうと決心していたが、中島はともかく、大西には「退職の理由なし」ということで却下されたという。
大艦巨砲主義を一擲せよ[#「大艦巨砲主義を一擲せよ」はゴシック体]
ところで、中島知久平はこのとき「退職の辞」を書いているが、これには「戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲《いつてき》して、新航空軍備に転換すべきこと」「設計製作共国産航空機たるべきこと」「民営生産航空機たるべきこと」の三点が強調されている。
後年、大西はさかんに「艦船無用・航空充実論」を主張したが、この主張の原点は中島の「退職の辞」にあるといわれている。そして、大西の航空思想をさらに発展させたのは、山本五十六との出会いである。
山本が航空畑に入ったのは中佐のときで、当時海軍大学の教官であったが、井出大将の欧米航空事情の視察に随行を命じられ、帰国後、霞ヶ浦海軍航空隊教頭に任じられている。これが大正十三年のことだから、航空では大西の方が先輩になる。
山本は航空畑に前後七年半いたが、この間に「国産機の製作は軍事上焦眉の急務」であることを説き、航空本部の技術部長の時代にその政策を打ち出した。これが海軍航空隊は「山本が生みの親・大西が育ての親」の論拠になっている。
前にものべたように、山本が昭和十六年十二月の「真珠湾攻撃」に先立ち、その立案について大西瀧治郎に研究を依嘱したことは、両者の関係からいっても当然であろう。
山本は、このとき福留繁参謀長に対して「わざわざ傍系の大西に計画の検討をたのんだのは、自信がつくまで私個人の研究に止めておきたいからだ」と語っている。
大西は、この山本案に対して「真珠湾内の魚雷発射は、水深が浅いため不可能なこと」「ハワイ周辺の哨戒圏は六百|浬《マイル》に達し、機密保持がむずかしいこと」の二点をあげ、山本にこれを説明する一方で、福留にも「長官にあの計画を思いとどまるようにいってほしい」とたのんでいる。そのうえ、後日、草鹿龍之介少将といっしょに山本を訪れ「計画変更」を具申してもいる。
しかし、山本はついに所信を曲げなかった。日米決戦という大局から見て、「結局桶狭間と鵯《ひよどり》越と川中島とを合わせ行なうのやむを得ざるハメに追込まれる次第」を洞察していたわけである。
大西は山本の知遇を得て、ますます「海軍航空隊」の充実に拍車をかける。これが海軍部内の大艦巨砲主義者≠ノは暴論≠ニさえ受けとられた。ましてや、陸軍の一部には大西を奸物視≠キる向きもあった。
昭和九年、福岡市で民間防空指導を目的とする軍事講演が行なわれた。海軍代表は大西瀧治郎、陸軍代表は久留米師団の防空担当参謀があたった。
陸軍は、昭和四年の大阪防空演習以来、毎年各地で演習をくりかえし、その実績をもとにして勅令さえ公布している。防空担当参謀は防空心得や実施要領を丁寧に説いた。続いて大西が登壇した。彼は、民間防空もさることながら、防空の本旨は敵機をして本土上空に進入せしめない事にある、それには海軍航空隊の充実が先決的急務というべきで、国民はこれを重点に考えてほしい、とのべた。そのあと、もっともいくら航空隊を充実しても、敵機をすべて討ちとることは不可能だから、侵入機に対する民間防空は必要だとつけ加えた。
しかし、陸軍は大西演説に激怒した。勅令まで発布されている民間防空を軽視したとして、ついに久留米師団から佐世保鎮守府に抗議文をおくり、中央でも陸軍省内で問題化しようという声が立った。海軍は、その体面上からも率直に受け入れることはできず、大西の所説は真実であるが、ただその表現が率直すぎたという表現をとった。
これは些細な一例であるが、大西瀧治郎という男の発想法が重点指向型で、形式的な枠組みを全く無視してしまう風景を物語っていよう。
このあとすぐ、陸軍の一部から「陸海軍の航空部隊を一本化して空軍≠つくろう」という提案があった。彼らはこの合併思想に熱心で、もし航空部隊の一本化が無理ならば、せめて航空廠だけでも一本化しようと主張した。
これに対して、海軍側では航空本部長の山本五十六中将が強硬に突っぱねた。山本は技術本部長のとき、粒々辛苦して飛行機国産の途をひらいた経験がある。その結果、海軍の技術は陸軍のそれをはるかに上まわっているが、いまここで合併したのでは、海軍の技術は停滞せざるをえない。これは欧米の技術との格差がふたたび開くことを意味する。それに、陸軍と海軍が技術を競争すればこそ、競争原理が働いて、優秀な飛行機が出来るのだ、という意見である。
大西はこの「陸海合同論」に対して、意見らしい意見をいっていない。「大西瀧治郎伝」の著者は、大西は敬愛する山本の意見に従ったのだろうと推測しているが、大西は「技術提携」はとにかく「作戦提携」にはむしろ自分の方から提案することが多かった。
むき出しの人間性[#「むき出しの人間性」はゴシック体]
昭和十四年、中支航空作戦の指揮官として運城飛行場にあったとき、彼は蘭州攻撃に陸軍と共同しようと提案している。陸軍機と海軍機の性能を克明に計算し、陸軍機だけでは無理だが、海軍機が提携すれば、有効な戦力になりうるとの判断に立っている。
また、レイテ作戦のときも、大西は自分の方から富永陸軍航空司令官を訪問して、両軍の攻撃目標の範囲をきめ、「縄張りよりも戦果主義」を提案したものだ。
事実、最初の特別攻撃隊が発進したときは、陸軍基地からも偵察機が何回か飛び立ち、アメリカ軍機動部隊の捜索を続けている。
大西が「航空優先論者」であることは前にも述べたが、彼はこれを主張するとき、きまって「艦船優先論者」の中にある官僚思想を手きびしく批判した。その批判の裏側には、海軍の制服を着て日常業務しかやらない人間への軽侮がこめられていた。
つまり、彼は「航空優先」を主張することによって、日露戦争以来の考え方に挑戦しようとしない硬直性そのものに挑戦したのである。古い思想を攻撃するためには新しい思想しかないというのが、彼の考え方である。あるいは、現実とか日常性とかいうものからいつも自由であろうとする人間性がむき出しになっている。後に述べるように、彼は結婚や家庭に対しても世俗一般の常識を見せていない。彼が結婚したのは満三十六歳、海軍少佐のときである。それまでに友人が芸者に産ませた子をひきとって、家庭争議を救ってやったり、なかなか珍妙な人生ドラマを含みながら気ままな生活を続けている。
矢次が大西にあったのは昭和十四年のことである。太い眉の下に強い瞳を光らせ、下ぶくれの顔をしてのっそりあらわれたときは、一目で「これが嫌われものの大西だな」とすぐわかった。
「国策研究会」主催の晩飯会がおわり、矢次は上落合、大西は高円寺と、帰る方向が一緒になった。
東京駅から中央線に乗ってしばらくすると、大西が、突然、口をひらいた。
「君は、じつにつまらん人間とつきあっているんだな。今夜の会に来ていた連中は海軍のクズだよ」
「そうか、クズかね」
「ああ、クズだ。クズもクズ、人間のクズだ」
矢次は、電車の中で、海軍少将が「海軍のクズ」という言葉を吐くのを聞いて、いささか慌てた。それからまもなく、例の「軍艦を海の底に沈めて、空軍省にしよう」という大演説を「国策研究会」の席上でやってのけるのである。
周囲に集まった民間人[#「周囲に集まった民間人」はゴシック体]
戦争中、「海軍はアメリカ軍よりも陸軍と熱心に戦っている」という言葉が囁かれたが、大西は海軍の中の艦船主義者と戦うことも多かった。
彼の周囲には、児玉誉士夫、川南豊作、石原広一郎などの民間人の姿があった。また、人相見、指圧師、それに観音教の岡田茂吉なども出入していた。岡田は初対面の席で「B29なんか念力で落すようでなければいかん」といった。大西が「バカをいえ。それじゃ貴様、おれがいまピストルを射っても貴様にはあたらんか」と笑った。「射ってごらんなさい」と岡田がいう。大西は「よし」といって拳銃をかまえた。岡田はじろりと銃口に眼をあてると「さ、どうぞ。射っても弾丸の方が私をよけてゆきますよ」といった。大西はそれを聞くと「ふわッ」と妙な声を出し、「貴様はたいへんな奴だなあ」と握手を求めた。
大西を愛する人たちは「まるで西郷隆盛か清水次郎長だ」とおもしろがったが、海軍の将校の間では「いかものばかり集めて得意になっている」と、評判が悪かった。鈴木貫太郎内閣の書記官長だった迫水久常も、大西が軍令部次長になってからも「矢次や児玉とつきあいすぎる」という批判を耳にしているのである。
しかし、大西はそういう声をなんら意に介していない。それどころか、航空兵器総務局次長のとき朝日新聞から「航空機増産」というパンフレットを刊行したが、その中で彼は児玉誉士夫を正面きって褒めそやしている。少々、長くなるが、この一文は大西と民間人のつきあいの内容を語る代表的なものなので、ここに引用する。
「私の知人の児玉誉士夫氏は、今度の戦争が始まると同時に、今は右翼も左翼もない。政治問題なんかやっている時期ではない。直接戦力に寄与貢献する仕事をやりたい≠ニいうので、それ以来海軍省嘱託として非常に重要な任務をやって貰っておって、非常な成績をあげている人であるが、ある鉱山が自分の手に転がって来たので本務の片手間に部下を使ってこれを開発しているが、はじめは鉱石を出していたが、そのうちに三〇%乃至八〇%の高品位の鉛の鉱石にぶつかったのである。最近、その溜まった鉱石百トンを献納に来たが、そのとき今後その山から出る鉛の鉱石は、全部軍需省に献納します≠ニ言った。そこで、私は、児玉君に全部ただで献納しては、君は損するじゃないか≠ニいうと、彼は運賃と精錬費とは、あなたの方で持って下さい。しかし、採掘と選鉱の費用は一文もいりませぬ。国に献納するんだというので、皆が殆ど奉仕的にやって呉れているので、費用は一カ月に三千円要るだけです。一年でも三万六千円です。私は色々な報酬等で貰った金が今十万円あります。二年や三年は私の財産を皆投げ出して、それで大丈夫です。鉱石に対しては一文も要りませぬ。この戦争が負けたならば、私の金なんか問題じゃないから、こんなものはすっかり出します≠ニ言う。国と死生を共にするということに徹底して現にこれを実行しているのである。一般には口では滅私奉公を唱えるが、本当にそうなっていない。問題は何でも実行である」
つまり、大西と児玉の間には篤《あつ》い人間的交流があったことはもちろんだが、大西にとって児玉を先頭とする民間人は、彼の「航空優先論」の実質的な協力者でもあったのだ。大西の重点指向性は、軍とか民間という枠をとうに飛びこえていたのである。
児玉機関の誕生[#「児玉機関の誕生」はゴシック体]
いわゆる「児玉機関」の誕生と活動については、児玉自身が書いた「風雲四十年の記録――悪政・銃声・乱世」に詳しいが、要約していえば、昭和十六年十一月末、当時航空本部長だった山県正郷海軍中将が、国粋大衆党総裁・笹川良一を通じて児玉に接近したことに始まる。
このとき山県は、これからの時代は航空第一主義になるのだが、飛行機生産の資材は艦政本部の手に握られて、とても必要量がまわってこないことを訴え、こうなったら上海その他の外地で「航本」の必要とする資材を集めるほかはないが、それを児玉にやってもらえないかと依頼した。
児玉は、上海にある興亜院の出先機関と艦政本部がひそかに海軍武官にやらせている「万和通商」が邪魔しないことを条件にこの仕事をひきうけ、何度か生命の危険にさらされながら、棉花・銅・ヒマシ油・雲母など、航空機に不可欠な物資を集めて「航本」に提供し続けた。ことに中国何億かの民衆がふるくから使っている銅幣(銅銭)は、鋳《い》つぶすとすぐ軍用資材になるので、地方軍閥との間に危い橋をわたりながら集めている。これを上海で熔《と》かし、インゴットにして日本におくり、古河鉱業で電気銅になおして「航本」にまわすのである。
山県中将は、やがてアンポン島方面の司令官として転出、後任に大西瀧治郎中将がすわった。大西はそのまえから児玉という人間を観察し、山県から引き継ぎをうけると、さらに大きな仕事をやらせている。
児玉は将官待遇を受け、「児玉機関」はそのうち内地のタングステンや鉱石の発掘まで手がけて、軍部の「嘱託機関」としての体裁をととのえていった。この仕事で彼が蓄積した財産は、終戦時の金で現金五千万円にダイヤ、ルビー、翡翠《ひすい》などの宝石であったが(もっとあったが中国に置いてきている)彼はこれを天皇家の窮乏を救うべく宮内庁に預けている。ところがGHQの捜索があるというので、辻嘉六や矢次一夫の家に運び直し、辻はその一部を土中に埋めた。これが、鳩山一郎・河野一郎の「自由党」結党資金となったのである。
このほか、大西はダボハゼ≠ニいわれるくらい、いろいろな人物やアイディアに飛びついた。ひとつには、彼の形式にこだわらない性格、もうひとつは艦政本部が技術畑の人事権まで握って、航空関係にあまり人をまわさなかったことによる。
久保田芳雄少将によると、艦政本部が航空主力≠フ認識を持ちはじめ、これが技術面に反映してきたのは「レイテ戦以後である」という。久保田は海軍機関学校を足立助蔵と同期で、中尉のころマサチューセッツ工科大学に留学、マスター・オブ・サイエンスを修了した、折紙つきの技術将校である。
大西中将は、軍需省航空兵器総務局から比島へ転出するとき、第三局(資材)長をしていた久保田を呼んでいった。
「じつはな、すこし内職≠していたんだが、これは後任(酒巻中将)には内緒にして、君が面倒みてくれよ」
大西のいう内職≠ニは、軍需省の正規の帳簿にはのらない資源開発だった。これが二つある。ひとつは、児玉機関にやらせていた山梨県乙女峠の鉱山開発である。タングステン、モリブデンの鉱山で、戦前ドイツ人が経営していたものを譲り受け、児玉誉士夫に請負わせていた。第二は、鳥海山にある砂鉄の熔鉱炉だ。これは、大華冶金と大華工具という二つの会社を経営する人物にやらせていた。この社長は東京高工の出身で、鋭すぎるような頭の持ち主だが、それだけに奇矯《ききよう》な行動が見られたという。
久保田はこの内職≠打ち明けられたとき、「あいかわらずダボハゼだな」と、五十すぎても衰えぬ好奇心の強さに感心したという。
水を油にかえる法[#「水を油にかえる法」はゴシック体]
昭和十四年の夏、ある民間科学者が「水を石油にかえる法」を開発したというので話題になった。なんでも、水を試験管に入れて数滴の液をそそぎ、それから密閉して湯煎《ゆせん》すると、水が石油にかわっているという。阿川弘之の「山本五十六」によれば、その年の正月、貴族院議員で公爵の一条実孝が山本海軍次官にその話をしたらしい。山本は、最初、とりあわないふうだったが、半年もすると「嘘なら嘘で徹底的に調べる」といい出し、大西瀧治郎を横須賀鎮守府の石川信吾大佐の許に使いに出した。石川は数年前にこの話をきき、友人で海軍機関学校出身の森田貫一に実験に立ちあってもらっている。ところが、ある日、森田が「アルキメデスの法則がやぶられた」と、興奮の面持ちであらわれた。試験管の中の物質量には変化がないはずなのに、突然、ぽかりと浮び上るものがあって、その時、水が石油に変っているという。
「そんな話を森田から聞いたので、これは実験を続けていると、いよいよ騙《だま》されると思って、打ち切ってしまったんだ」
石川からそういわれると、大西はそのまま山本次官に報告した。
「よし、海軍省でとことんまでやってみよう」
山本は、早速、その男を東京に呼びつけ、水交社に泊らせて実験させた。
以上は阿川の「山本五十六」に出てくる話だが、久保田少将の回想によると「話は大西に持ちこまれ、大西は山本次官に伝えたが、山本次官は頭から問題にしなかった」という。もっとも、いずれの場合にせよ、幕僚や副官たちは「また、例の大西さんの吹きこみだろう。はた迷惑にも程がある」と、顔をしかめたとなっている。
幕僚たちにしてみれば、大西にはある種の前科≠ェあった。航空本部の教育部長をしているとき、妻の父親の教え子に水野義人という骨相学の研究をしている男がいて、これがパイロットの適性も手相・骨相でわかるといったことに興味を持った。彼は、すぐ、霞ヶ浦航空隊の副長をしていた桑原虎雄に電話をかけ、
「あなた宛に紹介状を書いて霞ヶ浦にゆかせるから、ひやかしのつもりでいい、一度あって話を聞いてやってほしい」といった。
桑原は、水野がたずねてくると、教官・教員百二十数名を昼食時に集めるから、適性を甲乙丙の三段階にわけてみてくれ、といった。
水野は、パイロットの顔を一人あたり五、六秒ずつ見て、甲乙丙の評価をつけた。ところが、その的中率は八七%であった。
桑原はおどろいて大西に電話をかけ、水野を海軍航空隊の嘱託にしようと相談、霞ヶ浦海軍航空隊司令の名で「参考トスルハ可ナラン」という上申書をつくり、これを大西に託して各方面を説かせることにした。
ところが、人事局も軍務局も大西の話をきくと吹き出してしまい、「いやしくも海軍が、人相見にたのむとはなあ」とかなんとかいって、相手にしない。そこで桑原は大西を同道して山本を訪れ、事情をくわしく話して、嘱託採用の斡旋《あつせん》方をたのんだ。
山本も山本で、じかに水野を呼んでテストし、観相学の原理まで傾聴したうえ、その場で水野の採用を決定している。
本来は、山本と桑原が水野の効用≠信用したのだが、海軍部内では「大西さんが妙な話をもちこむものだから」と、規格外の話はすべて大西を火元にしてしまうのだ。だからこそ、ダボハゼ説≠ェ信じられるのだが、彼もまた自分で「おれはダボハゼみたいな男やからな」と吹聴して歩いたものである。
さて、「水を油にかえる法」は、久保田軍務局第三課長(当時)をはじめ、軍令部の課長クラスも混じえて、その立ち合いのもとに実験が行なわれた。
水を二十本の試験管に入れ、目薬のようなものを数滴たらして、密閉して湯煎する。実験は深夜である。将校たちが睡気でボンヤリしていると、「できた!」という声がした。そこで「石油になった」という試験管を金庫に納め、男を水交社に帰してから調べると、ほんとうに石油になっていた。軍令部参謀で、真先に「特攻」をいい出した城英一郎大佐などすっかり感心して興奮がなかなか醒めない有様だった。
「やはり、われわれが科学と信じているものはまだまだ浅薄なもので、超科学的な力が作用するのだろうか」
海兵や海大を出た連中でも、そんなことを囁きあう空気があった。
ところが、一方ではその男のインチキを見破るべく、いくつかのプロットが仕組まれてもいた。
海軍省で石油の技術面を担当する渡辺大佐は、実験の前夜、翌日使用される試験管のくわしいスケッチを、製図工に命じて完成させている。
さて、実験がおわって、金庫に格納された試験管を取り出し、スケッチした図柄とくらべてみると、二十本のうち一本だけ、あきらかにガラスの中の気泡の位置がちがうものがあった。しかも、その試験管だけが石油に変っている。
これでインチキが暴露されたが、こんどは現場を抑えようと、もうひと晩実験をやらせた。先夜感激させられた城参謀が実験中に狸寝入りをはじめる。すると男は、内ポケットにしのばせた試験管を取り出し、実験中のものとすりかえた。
大西はインチキ男とその学問的裏付けを行なった東北大助教授某を海軍省内に呼び、試験管がスケッチしてあったこと、中身が石油になっている管だけがちがっていることを告げ、簡潔に、
「以上で試験はおわりだ」
とだけいった。二人が這々《ほうほう》の態で海軍省を飛び出した途端、まちかまえていた警視庁の刑事が躍りかかって縄を打った。
こういうときの大西は、すこし芝居っ気をたのしんでいるふうであるが、刑務所に入った二人に差し入れをしたのも大西である。
航空機をつくる場合、いちばん問題になったのは、鍛造・鋳物の部門であった。発動機や機体の研究は早くからすすみ、工程も合理化されていたが、鍛造・鋳物部門は十対一の割でおくれていた。だから発動機が十できても、脚部は一しかできないという具合である。
ところが「東京鍛工」という有力会社に役員の派閥争いがおこり、生産性が著しく低下するに至った。そこで軍需省も放っておけず、社長の首をすげかえて重役を一本化しようとはかった。
「鮎川義介にたのもう」
大西は即決すると、日産自動車の社長にあい、「東京鍛工」の社長も兼任してもらうことをきめてきた。ところが社内でいままで抗争していた重役陣がにわかに一本化し、日産系社長の排斥運動をはじめた。すると大西は、
「よし、俺がいってくる」
と腰をあげたが、いったん家に帰ると、ありったけの勲章を胸につけて会社に出かけていった。大西が重役たちに何を訓示したか不明であるが、とにかくそれで騒ぎがしずまり、生産は順調にいったという。
大西の説得力を疑うわけではないが、彼がそれに勲章の効果を添えたこともありうると思う。
博徒になりたい[#「博徒になりたい」はゴシック体]
妻の淑恵の記憶によると、大西はしきりに博徒≠ノなりたがっていたという。
大西は麻雀、ブリッジ、ポーカーなどの賭事に眼がなく、そうとう強かった。また、研究熱心でもあった。友人の徳田富二が、あるとき霞ヶ浦の航空隊をたずねると、大西は「おれはいま大数の法則≠研究しているんだ」と、ダイスを振って出る目の回数を書き入れた紙を一尺以上も積みあげてみせた。
足立少将によると、この大西と山本五十六がポーカーをはじめると、正反対の性格があらわれるという。
山本は口の中でブツブツいいながら、「ああ、そういうことをされてはかなわんな」と泣き続け、負けが込んでくると「きょうはどうも勘が冴えてこないんだ」と、終始、泣きを入れる。が、敗ければ敗けたで、金を払うとケロッとしてしまうそうだ。
大西の方はその反対で、終始むっと押し黙ったまま、壮烈な手を打ってくる。勝ちに乗ずると、手がつけられないくらい激しい勝負に出る。そのかわり敗け出すと、下唇を突き出し、唸り声をあげて攻勢に転ずるキッカケをつくろうとする。ついに負けて金を払う段になると、「こんど、また、やりましょう」と凄い眼で睨むという。
大西が「おれは海軍をやめたら博徒になる」といったのは、東京市内の麻雀大会で優勝し、大阪の全国大会に出場する資格を得たときである。しかし、現役の海軍中佐(当時)がそういうこともできないので、偽名のまま出場していたのを幸い、優勝を棄権してしまった。このときから彼は「海軍よりこっちの方がおもしろい」といい出したが、あながちそれはギャンブルに対する興味だけではなく、彼のまわりに蝟集《いしゆう》する無法者の自由な生き方に憧れてもいたようだ。
ある夜、軍需省の御用商人≠ェ大西家の勝手口に逃げこんできた。大西が物資を集めるため、公定価格で単価三十八銭のものを七十八銭で買い上げるからと約束し、商人の方もその価格で取引きしたところ憲兵に見つかり、追われているという。
「おとなしく刑務所にいってらっしゃい。いま、若いひとがどんどん死んでいるじゃあありませんか。あなたも三年か五年入ってきたらどうです? 静養になりますよ」
大西は静かにいった。
「静養ですって?」
男もただ者ではない。大西に見込まれ、利鞘《りざや》四十銭もの仕事をする男だ。
「大西さん。もともと七十八銭でもってこいといったのは、あなたなんですよ。それで刑務所に入るのが私ってのは、いったい、どういうわけですか」
いまにも腕をまくろうとする剣幕である。大西がにやりと笑った。
「戦争がおわって、われわれが悪いとなったら、二十年でも三十年でも入る覚悟なんですよ。あなたの身がわりで一生入ってもあげましょう。これでどうです?」
そういうと、男は椅子からさっとおりて「私の思いちがいでした」と、絨毯に頭をすりつけた。
「そうですか、行ってくれますか、有難う」
大西はそれだけいうと、男の靴を玄関にまわさせ、背中に手をおいて「さようなら」をいった。そのあと、彼は男が出所するまでその家族の消息をたずね、面倒を見ることを絶やさなかったという。
裸でぶつかって来い[#「裸でぶつかって来い」はゴシック体]
高位高官の者には誰にでもある、陰徳のエピソードかもしれない。しかし、いつも「国家の大事」を口にしている大西にこのような態度を見ると、行動の振幅がひろいというより、彼の人間的規模が「海軍士官」からはみ出しているように思える。
この規格外の素質が後進の士官たちに好かれたことも当然であろう。
夕食時に士官がくると、「おれの家には上座というものがないからな、どこにでもすわれ」とすわらせ、酒と食事を用意させて、気のすむまで話しこんだそうだ。そんなとき士官が「夜分にすみません」というと、「男はすまないと思ったら来るもんじゃないよ」とたしなめ、
「海軍省内では秩序というものがあるが、この家に入ったからには人間どうしだ、裸でぶつかってこい」
と、大きな瞳で睨んだ。
昭和十九年十月、敗色濃い比島に第一航空艦隊司令長官として姿をあらわしたとき、現地の士官たちが「大西さんが来てくれた」と、いっせいに喜んだのも、海軍という血≠わけあった先輩・後輩の自然な感情であろう。
しかし、大西が軍令部次長として東京に帰ったとき、部内はむしろ彼に冷たかった。真先に「徹底抗戦」を唱えたことが、時勢の本流を知らぬ経験主義者の暴論と受けとられたからである。
大西は心情から出発した発言をし、将官たちは客観条件を眺めながら発言をしている。
二十年四月、空襲で大西の家が灰燼に帰した。彼が会議中のことだった。児玉誉士夫がかけつけ、「様子を見てきましょうか」というと、大西は、
「妻が死んでいたら、あなたの手で埋めて、静かに葬ってやって下さい。それだけです」
と、会議室に消えていった。
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