特攻の思想
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第 九 章
腕力をもつて補う[#「腕力をもつて補う」はゴシック体]
大西瀧治郎が結婚したのは満三十六歳である。永いあいだ独身であったわけだが、これは、彼の人間像をかなり有力に物語っている。
「大西瀧治郎伝」の著者は、彼の晩婚の原因をもっぱら飛行機乗り≠フ立場に求めている。大西と兵学校同期(四十期)で航空学生を命ぜられた者は十五名、全クラスの一割にあたる。ところが、この三分の一は平時の飛行訓練で死亡し、のこり十名も二度や三度の事故は普通のことで、大西自身も数度にわたって生命を失いかけている。晩婚の話とは別になるが、彼ほどいくつかの偶然に生命を救われたものも珍しいのではないかと思われる。一例をあげると、昭和十二年八月、当時大佐であった大西は朝鮮の済州島から渡洋爆撃隊に加わったが、このときの模様を竹中大佐(後、中将)はつぎのように語っている。
「私は基地で四中隊三番機が撃墜されたと聞いたとき、シマッタと思った。大西大佐がその三番機に搭乗すべく指揮所を出ていったからである。ところが、四中隊の帰還機が着陸すると、大西大佐がのこのこと出てきたので、二度びっくりした」
たしかに、大西は三番機に乗るはずであったが、出発間際に飛行場の片隅でゆうゆうと放尿していたためこれに乗りおくれ、否応なしに手近の二番機に飛び乗ったのである。彼の飛行歴の中で、この種の話はふんだんに出てくるが、それは同時に飛行機乗り≠フ消耗率の高さを物語っているだろう。
当然、航空将校には縁談が薄かったし、彼らの方でも独身で通そうと考えていたものが少なくなかった。大西もその例外ではない。しかし、大西の晩婚はこうした一般論のほかに、彼自身の性格が重なってもいる。
前出の渡洋爆撃の話でもわかるように、彼は大佐の階級で攻撃部隊に参加している。当時の海軍航空隊では、司令(少佐以上)になると、実戦機には搭乗せず、基地で指揮をとるのがふつうであった。大西は、そういう内規≠無視して、さっさと乗りこんでしまう。しかも、三角形の編隊を組んだ場合、いちばん敵の攻撃を受けやすい後方の翼端に位置する飛行機に乗るのである。
軍隊以外の組織でも、みずから好んで風波を浴びやすい位置につくものがある。それが彼の人生観であったり、あるいは組織のモラールを高める企図から出ていたりする場合がある。大西の場合でいえば、その両方ではないかと思う。
しかも、彼は大酒飲みの喧嘩好きときている。彼の喧嘩好きは、多血質というより、口ベたから来ているようだ。
彼の出身地である兵庫県氷上郡芦田村(現、青垣町)は、中国山系の丹波高原の一画をつくり、周囲を多くの峠で囲まれている。地形は長野や松本のような盆地であるが、気候は裏日本式で秋・冬は雨雪が多く、気温がひどく低下することがある。初夏から秋口にかけては、いわゆる丹波霧≠ニして有名な霧が盆地一帯を包みこんでしまう。周囲の山々は、霞をまとって水墨画の趣を呈する。以上のような自然条件から、造林業がさかんで、耕地面積は青垣町の一割にもみたない。したがって、地域の人々は出かせぎ≠ナ収入を補うほかはない。酒づくりで有名な丹波|杜氏《とうじ》や岐阜の寒天づくりなど、みなこの地方の出身者である。
そこで、山間盆地という地形的には閉鎖社会でありながら、出かせぎ≠フ人々がもちかえる情報がこの地域に刺戟を与え、ふだんは寡黙であるが議論をはじめると理屈っぽいというタイプの人間をつくる。
大西もその典型的人物のひとりで、友人の徳田富二によると「話しだしたら、彼くらい頑強な男はいなかった」と述懐している。
もうひとつ挙げておきたいのは、彼が十三歳のときから家庭生活≠味わっていないことである。
氷上郡は現在でも教育郡≠フ別名があるほど教育熱心な地帯で、江戸末期にもかなり有名な「青渓書院」という塾があり、戦前は長男を師範学校に入れ、半農・半教員で生計を立てる家が多かった。この教育熱に支えられて、芦田村の小学校からは年に二、三人、柏原《かいばら》中学に進学する。柏中《かいちゆう》は当時姫路中学と並ぶ名門校である。芦田均もここの出身者だった。しかし、芦田村から柏中まで三里半の道程である。当時、子弟は家郷を離れて寄宿舎に入る。大西もこの寄宿舎に入り、室長をしていた。
昭和三十六年に、浅草の山谷に住む山本潔が「六十祝祭」という詩集を出している。この中に「生きのまにまに」という自叙伝が収められているが、山本もまた柏原中学の出身で、室長・大西瀧治郎≠ノ触れて書いている。
「大西さんは寄宿舎の室長をしていましたが、変な奴がいるとその男を蒲団の中へまるめこみ二階の窓から下へおとすというようなこともやり、この大西さんには誰も手出しするものがありませんでした。学力も優秀でした」
大西は十三歳で柏原中学に入り、中学四年修了で海軍兵学校に進み、卒業して艦隊勤務についている。つまり、彼の青年時代はほとんど同年の男性だけの世界ですごされているのだ。後年、三十六歳の海軍少佐で結婚したとき、妻を伴って芸者のはべる宴会に顔を出したが、余興をせがまれると、ひどい調子はずれで丹波篠山≠歌って、妻の淑恵を面食わせている。
実際のところ、大西が歌える唯一の歌は「丹波篠山お山の猿が、花のお江戸で芝居する」というデカンショ節≠ナあったらしい。淑恵は、大西の芸者遊びをしばしば聞かされてきたので、さぞかし粋な小唄のひとつも出るだろうと思っていただけに、しばらくは呆気《あつけ》にとられていたといっている。
大西の口べた≠ヘ、その成長期において、対人間関係を結ぶ機会が少なかったことからもきていよう。それが直截《ちよくせつ》な表現法をとらせ、ときには意あまって言葉足らずという状態に直面すると、腕力をもって補うという行為に出るわけである。
つまり、彼が三十六歳まで独身であったということは、飛行機乗りの危険度もさることながら、彼の行動が縁談を遠ざけていたともいえる。大西瀧治郎と松見嘉子(後年、淑恵と改名)をひきあわせたのは、海軍少将・井上四郎である。
昭和三年、大西は佐世保で空母「鳳翔」の飛行長をつとめている。松見嘉子は、江戸時代の一橋家の典医の家系である。父の文平は、神田順天中学の創立者で、教育界では名の通った人物である。嘉子はその六人の子の次女にあたる。
拳骨が降つて来た[#「拳骨が降つて来た」はゴシック体]
両家の見合いは佐世保市内の料亭で行われたが、淑恵の回想によると、大西の言動は、終始、松見側の常識を超えていたという。
まず、松見家の方で「嘉子は再婚ですが」とことわると、大西は「ああ、そんなことかまいません。私なんか、何婚か、わかったものではありませんから」と大笑したものだ。そのうち芸者がどやどや入ってきて、彼女たちにもその席が見合いの席であることがわかると、大西は「おまえたちも、俺にゆかれて淋しかろうが、我慢しろ」といってきかせる始末である。
彼は、その日、眼の上を怪我して傷跡があった。淑恵の母が「軍務上のお怪我ですか?」ときくと、大西はしばらく説明の言葉を探していたが、ついに、「先夜、上の方から拳骨らしきものが降ってきましてなあ」と、嬉しそうにいった。なにしろ海軍少佐が、盃を傾けながら、芸者遊びの話や喧嘩の話をするのだから、教育家の家庭の方はずいぶん困ったらしい。淑恵は、口もきけないほど、おどろいていたという。
大西はそんな空気にかまわず、自分の風貌について語った。見合いのまえ、彼は、「眉目秀麗とはゆかずとも、目鼻立ちはハッキリ致し居り候」という手紙をおくっているが、その日は「私の口はたいしたものです」と語りはじめた。
英国留学のとき、船の甲板で運動会があった。器に水を張ってリンゴをうかべ、それを手を使わずに口でくわえて走り出すという競技である。大西は、自分はその競技で断然優勝したが、翌日の船内新聞に「日本の海軍将校の口は並はずれて大きかった」と出ていたのには憤慨したと語って、一座の爆笑をひきおこした。
「じつに物事の本質をわきまえない記者がいるものです。私がリンゴをくわえるのが巧みなのは、口が大きいからではなくて、これと思ったリンゴをタライの底に抑えつけて捕えるからです」
松見家のひとびとは、結局、見合いに来て芸者遊びをたのしんで帰京する結果になったが、大西の飾り気のない人間に触れて、かえって信頼感をふかめたようだ。
しかし、淑恵夫人のおどろきは、結婚後もしばらく続いている。彼は晩婚の理由を、横須賀航空隊にいるとき、逗子の芸者がある将校の子を産み、それが原因で将校の家庭に紛争がおきたので、自分が芸者に「子どもをつれてやってこい」といい、しばらく子づれの芸者と同居するようになったからだと、おもしろそうに語ってきかせた。
この話に新妻がうろたえたのは当然だが、さらに、ある日、外出先で女学校時代の旧友にあって、大西の傍若無人ぶりを聞かされる。旧友は嘉子が大西の妻になったことを知らず、ひさしぶりだからと自分の家に招じ入れたが、「今夜もどうせ、うちの主人は午前様ですからね」と切り出した。
「この間赴任してきた副長が飲み助で、早く座を立つと怒り出すんですって。家を明ける夜もあるので、理由をきくと、副長が泊まれというので泊まらざるをえなかった、といつもいうのよ」
淑恵がおどろいて、「その副長さんは、なんていう人ですか」と訊ねると、友人は言下に、「大西瀧治郎というひと。なんでも、喧嘩早いので、喧嘩瀧兵衛≠ニ呼ばれているらしいわ」といったものだ。
そのうち、ついに将校夫人の間で、「夫の遊びを見学する会」が立案され、実行に移された。このあたりから、淑恵は大西の遊び≠フ哲学に触れるようになる。一夜、夫婦同伴で市内のキャバレー「日輪」に繰りこんだ。ホステスを呼んで馬鹿話をしていると、大西はいつの間にかホステスの手をにぎり、上手に弄《もてあそ》んでいる。夫人の一人が気をきかせて、大西の隣にすわりこんだ。すると、大西は、しまいまで彼女には一指も触れなかった。
そのあとすぐ、といっても淑恵には新婚一カ月くらいの夜であるが、大西は午前一時ごろ、三人の芸者をひきつれて帰宅した。芸者の一人は、色が浅黒くて目もとの涼しい、いかにも着やせするタイプの女である。大西の好みだったらしく、彼はラッキョウ≠ニ綽名をつけて、さかんにからかったものだ。
淑恵はすっかり気鬱になって、大西が、「田丸屋のカキ餅があるだろう、出せ」といったが、聞えないふりをして、台所で洗いものを続けていた。
無原則の思いやり[#「無原則の思いやり」はゴシック体]
その夜、芸者たちが帰ったあと、淑恵が不貞腐れたまま寝ようとすると、大西は「待て。そこにすわれ」といった。それから彼の女房教育がはじまる。
「芸者たちは、好きでああいう商売をやっているのとちがうよ。親のためとか、家のためとか、とにかく本人の意志以外のところで働いているんだ。そういう女にとって、海軍士官の家に連れてこられることは、名誉なんだよ。それなのに、なんで、あんなにプリプリしてみせるのか。人間は相手の気持も汲んでやることが、いちばん、大事なのだ」
大西の私生活のエピソードを集めてみると、社会的に地位の低いものに対する配慮とか思いやりといったものが、ひとつのブロックとなってあらわれる。この種の思いやりは、ほとんど無原則的なものにさえ見える。ところが、そのエピソードの落着先をみると、彼なりの人生哲学≠ェ顔を出すのである。その評価はあとで述べたい。
「大西瀧治郎伝」の中で、長崎県の柳ヶ瀬吉蔵という人物の回想記がかなり永く紹介されている。それだけ柳ヶ瀬は永い間大西と交渉があったわけだが、二人の出あいはごく単純なもので、大西が佐世保海軍航空隊の飛行隊長をしているとき、柳ヶ瀬が二等水兵で同飛行隊の事務員をしていたというにとどまる。しかも、その間約一年だ。
それから五、六年もたって、柳ヶ瀬は新聞の人事異動欄で、大西大佐が横須賀航空隊の教頭になったのを知り、なつかしさのあまり葉書を書く。それがきっかけで、柳ヶ瀬は大西に呼ばれ、大道商人の足を洗って航空廠飛行実験部につとめるようになり、さらにまた日本飛行機への就職も世話してもらっている。この間にも、柳ヶ瀬の長男が肺炎で重態になったとき、大西夫人が多額の見舞金を持ってきたうえ、大船の日限地蔵尊まで祈願にいってくれたなどのエピソードがあるが、いちばん大西の人生哲学≠物語っているのは、柳ヶ瀬が大西の面前で岡村海軍少佐から侮辱をうけたときの話である。
昭和初期の不景気で、柳ヶ瀬は航空廠の日給一円六十銭の給料では苦しくなり、再び大西のところへ相談にゆく。折から岡村少佐が来ていて酒を飲んでいたが、最初は、「大西さんはえらい人だから私用はなるべくお頼みしない方がいいと思うがな」と忠告していたのが、酔うほどに飲むほどに、「柳ヶ瀬、貴様は商売なんかしたので、大西さんの地位を利用しようとかかっているんだろう」と目をすえ出した。柳ヶ瀬が抗弁すると、岡村は、「なにを、この野郎」と一升壜をふりあげた。このときまで黙って聞いていた大西が「岡村君。君のいうのは理論だよ。世の中は理論どおりにはゆかないから、柳ヶ瀬君もこうして相談に来ているのだ」と間に入ったので、修羅場は免れたが、柳ヶ瀬は口惜しさのあまり男泣きに泣いたという。
それから数年たって、柳ヶ瀬は大西夫人からあの夜の大西≠フ気持を聞かされる。
彼女も面罵《めんば》された柳ヶ瀬があまり気の毒なので、岡村が辞去したあと、「あなたは御自分が面倒を見て居る人が、面前で罵られて居るのに止めもせず、なぜ傍観して居られたのですか、あなたとはその様な薄情な人ですか」とつめよった。すると大西は、「おまえは女だからそのようにいうが、おれは反対に岡村が良いことを言ってくれると、内心岡村君には感謝していたのだ」と答えた。「なぜです?」とききかえすと、大西はこう答えている。
「柳ヶ瀬というヤツは岡村からヤラレタ位で辟易する男ではない。かえって発奮するヤツだ。だから発奮の材料を提供してくれていると思ったから黙って見ていたわけだ。とにかく俺の目が狂っているかどうか、長い目で見てやってほしい」
柳ヶ瀬は、そのあと日本飛行機の台北支所の責任者になっている。敗戦の日、彼は、「玉音放送」を聞いたあと「大西閣下はあるいは自害なさるか」と直感し、事実そのとおりになって大衝撃を受けたと書いている。
「昔の恋人であります」[#「「昔の恋人であります」」はゴシック体]
夫人の回想によると、大西の考えは全部聞かないと理解できない性質のものと思われる。
夏の某日、知人宅にビールを半ダースもってゆくように命じた。夫人が女中に、「ゆきなさい」というと、女中は、「この日盛りにですか?」と尻込みをした。それを見て夫人が、「たいしたことはないじゃないの」というと、大西は、「キク、ゆくことはないよ」と女中に声をかけた。「たいしたことはない、といっているひとに持っていってもらいなさい」
そこで夫人が暑い思いをしてビールを届けると、大西が、「どうやって持っていった?」と訊ねた。
「三本ずつ二箇の包みをつくって両手に提げ、疲れたら通りがかりの家の塀やクズ箱の上において休みました」
夫人の話をきいて大西がいう。
「それだ。それを女中に教えてやれば、自分がゆくことはなかった。自分でやれることを、なぜ他人に教えてやれないのか」
この話は、ゆくりなくも山本五十六大将の、「やってみせ、いってきかせて、させてみて」という指導法と一致していておもしろい。
女中について、もうひとつエピソードがある。漢口駐留から帰還したとき、大西はいつになく土産物を買ってきた。カバンの中は、エメラルドの指輪、服地、黒の帯地である。
「奥さんをよくお守りしましたか。大事にしていましたか」
まず、女中に訊ねた。女中は十五歳になる。幼く頷くと、大西は、「よし、よし、ではご褒美にこれをあげよう」と、エメラルドの指輪や服地を与えはじめた。夫人が傍から、「この子にはまだ早すぎるようですし、高価にすぎます」と袖をひいたが、大西は一向に肯《き》かなかった。そして、最後に黒の帯地を出して夫人に与えた。
「あら、黒ですか」
夫人がいうと、大西は、
「黒は、いくつになっても着られるんや」
けろりとした顔である。後刻、夫人がもう一度、大西に、「いくらなんでも、十五の子にすぎたお土産ではありませんか」と鼻を鳴らした。これに対して、大西がいう。
「おまえさんはバカですね。まだ若すぎるほど若いから、先にああいうものをあげて、娘心を喜ばせるんですよ」
大西が最前線に出ているとき、従兵を呼び捨てにせず「さん」づけで呼んだことは前にも書いた。従兵だった山本はそういう大西を「磁石のように、こちらが惹きつけられるひとだった」と回想している。
このようなエピソードに見られるのは、男性支配型の価値観である。大西にあっては男の価値≠ヘ絶対といってよい。
淑恵は婦人雑誌の「夫の操縦法」という記事を読み、「ヤキモチは本気で焼け」とか「夫は坊ちゃんが大きくなったもの」とか、納得のゆく項目に○印を打っておいたことがある。なにかのきっかけで、それが大西の眼にとまった。
「おまえさんは心得違いをしているよ」と彼は妻にいった。
「俺はおおぜいの兵を動かす人間だ。その俺が妻に操縦されると思うのがどうかしています。ね、そうじゃないかね」
いちいち、もっともである。ところが、性格や行動が言葉どおりにスクェアなものかというと、その反対である。酒を飲めば乱暴狼藉にわたることもあるし、結婚後もおおっぴらに芸者とたわむれている。観艦式のある数日前、淑恵の母が訪問すると、大西は美しい芸者に切符をねだられているところだった。彼は、義母の顔をみると、臆する色もなく「あ、ご紹介します。こいつは、私の昔の恋人であります」と紹介したものだ。
男の虚無感[#「男の虚無感」はゴシック体]
天衣無縫とか、器が大きいとかの表現はあるが、私には大西に男の虚無感が感じられる。男性支配を先入主として持っている男が感じる「もののあわれ」が大西にある。
彼は、花の好きな男であった。どういうわけか、月見草が好きで、それを口に出していうこともあった。
ある日、妻の淑恵が鉢植えの月見草を買ってきて、庭に移した。地味が適していたのか、それが叢《くさむら》をつくるくらいに繁茂し、茎が高く伸びて、大輪の花を咲かせた。
大西は、食事がおわると、薄明の庭に降りて、月見草の花がひらくのを待った。
「さあ、咲くぞ、咲くぞ」
彼は、花の前に中腰になって大きな声を出した。家じゅうのもの、来客があればその来客もまじって、庭にかけおりる。
蜩《ひぐらし》が熄《や》むと、月見草はゆっくりと咲きはじめる。最初、蕚《がく》がぐっと反《そ》って外側にはぜてゆく。すると、花びらが薄黄色の扉をひらくように、くるっとまわりながらひろがっていった。大西は、息をころして花がひらきおわるのを見つめ、やがて、仄《ほの》かな花の色に目をあてて呟いた。
「これを見ていると、宇宙の大自然というものを感ずるんや。見てみい、こんなに可憐で幽《かす》かな花にも、大自然の法則というものがかよっているんや。人間はこの法則にはさからえんのや」
この東洋的諦観が、彼のパトスの軸になっている。
前にも紹介したが、大正二年、大西は母を失ったとき、郷里にいる兄に手紙を書いているが、その中に「悲しみても余りあれど、今に及びて何をか言はむ。只あきらめが大切なり。又一度思ひをひるがえして、宇宙を大観せんか、生必ずしも喜ぶに足らず、死亦悲しむに足らず、人生は古人の言へるが如く、宇宙なる大海に生ぜし水泡の如し」という文句がある。
彼は、また、文中でいう。
「我等は、永遠に消えざらん水泡たることを欲す。この事果して得べきや否や、余は可と言はむ。仏教ある所釈迦は生くるなり。耶蘇教ある所耶蘇は生くるなり。実に永生の道は、其の美名を残し、其の主義人格を残すにあり。母上死し給へりと雖《いえど》も、母上は母上の歎美者の中に生き給ふなり。少くとも、幼より日夜薫陶を受けし、否母上に其の性格をつくられし我等同胞に於て、母上は生き給へるなり」
大西は、存在に対する諦観を以て月見草に触れ、母の死に対向し、社会的地位の低いものに接している。その諦観の支点になっているものは、男性としての自覚である。もちろん、海軍の航空将校として合理的|思惟《しい》の方法を身につけ、論理的帰結を求めるような習慣もそなえている。しかし、それは現実的処理が要求される場合に発揮され、効果が不可視的な局面では輪廻観が出てくるのである。
彼は、終戦の前日、本土徹底抗戦を叫んで敗れた。そのため、いまでも「気違いじみた海軍首脳の一人」という印象で受けとられているが、彼は山本五十六大将の「真珠湾攻撃計画」に反対し、大艦巨砲主義を排して航空優先主義を主張し続けているのだ。
花は心で愛する[#「花は心で愛する」はゴシック体]
論理的帰結だけで思惟を完結させるのであれば、帰結の終点に「白旗を掲げて投降」という項目が插入されてしかるべきである。最後の御前会議における和平決定≠ヘその態度を採用した。しかし、それでは心情的にのみ動員してきた国民に対して説明がつかない。そこで重臣たちは、国家の論理を貫徹するために「国体護持」という心情をもち出したのだ。大西の徹底抗戦思想は、そのような論理と心情の二重構造に抗議をし、「国体護持」を国民が行為として体現することを主張したのだと、私は見ている。
しかし、国家の論理と国体の心情とは、まるで寄木細工のように、真夏の日の下で、重ねあわされた。論理としての「国家」はすでに破産しているのに、心情としての「国体」で救われ、浮揚したのである。この状況が「敗戦」を「終戦」といいかえさせ、「占領軍」を「駐留軍」といいかえさせる心理的土壌をつくったのである。そして、この心理的土壌の上に経済的繁栄が築かれ、日本はいつの間にか何事もなかったような顔に立ち戻ってしまった。敗戦以来、ただの一度も新しい国家目標≠求めることをしなかったのも、国家という論理の破綻《はたん》を国体という心情で救済し、隠蔽しおおせたからではないか。
天皇・皇后両陛下がヨーロッパを訪問された際、イギリスやオランダでいくつかの訪欧反対≠フ事件があったが、ヨーロッパ人の知的構造からみれば、日本は太平洋戦争の論理的帰結をおわっていないとの判断が生き続けているわけである。日本人は、彼らの態度に「おとなげない」という感覚で接したが、彼らはそういう日本人を「話しあえない」という判断で遇しているのである。
大西中将の本土徹底抗戦の思想は後で触れるとして、彼ほどの論理型将校が最後にはその対極点に立ってしまうのは、「特別攻撃隊」という死を客観に委ねた行為を具体化させることにより、諦観という哲学的態度も政治的プログラムに乗せたためなのである。
花の好きだった大西に、もう一つの插話がある。軍需省の航空兵器総局総務局長をしていた頃、彼の主管で、動員学徒に道具の種類・名称・その使用法を教えるための教育映画をつくった。その製作責任者である増谷麟が、東宝|砧《きぬた》撮影所から遊びにきた。その折、大西の花好き≠ェ話題になった。
昭和十四年、大西が漢口に駐在している頃、夫人が「なにかほしいものがあったらいって下さい」と手紙を出すと、大西から「なにもほしいものはないが、日本の花が見たい」といってきた。そこで、夫人は鉢植えの海棠《かいどう》の花を人にことづけて送っている。
「へえ。あんたが花好きとはねえ。その顔からは、花好きとは思えないがねえ」
増谷がひやかすと、大西はいささかムッとした調子でいいかえした。
「花なんて顔で愛するものではない。心で愛するのだ。できることなら、僕のハートを截《た》ち割って、君に見せてあげたい」
これには増谷も鼻白んで「気に触ったら許してほしい」と取りなしたそうだが、大西には磊落《らいらく》な風貌を語るエピソードの中に、突如として、心を踏まれたように怒り出す場面があらわれる。それは、彼が大切にしているものをからかわれたり、ゆさぶられたりするときに、つむじ風のように起る反応だ。
彼は、たしかに海軍の三音痴≠フひとりで、淑恵と結婚した昭和三年、つまり三十八歳で淑恵の姉から「雀の学校」という童謡を習ったという珍記録がある。例の「ちいちいぱっぱ」であるが、習ったがついに正確に覚えなかったというのだから、ほんとうの音痴であろう。
官僚制への批判[#「官僚制への批判」はゴシック体]
ところが、芝居の方はかなり好きで、佐世保や横須賀に流れてくる入場料十銭均一の田舎芝居でも観《み》に行った。ときには膝をのり出して舞台を見つめていたというからおもしろい。それだけに役者の声色《こわいろ》がうまく、ことに市村羽左衛門の真似はかなり堂に入っていた。宴会で興到ると、どてらの上に芸者の黒紋付を羽織り、五分刈り頭を紫の紐でゆわえて、蛇の目のから傘を斜にひらき、八字を踏んで、「春のながめは価千両とはチィせえ、チィせえ」とやってみせるのである。彼がそういいながら、大きな目玉をくるくるとまわして寄せると、それはそれで見られたもののひとつだったそうだ。この「チィせえ、チィせえ」を、彼は比島方面の第一航空艦隊司令長官として派遣される送別会の席上でやっている。銀座の数寄屋橋にあった料亭で、軍需省につとめる陸海の将星が綺羅星の如く居流れる面前だ。このときの「チィせえ、チィせえ」が、自分の受けた任務をいったものか、海軍首脳部への批判なのか、ハッキリしていないが、もうひとつ、海軍の中にある官僚制への批判でもあるという。
大西は宴会というとこの芸を出していたが、枝原「陸奥」艦長の家に夫婦同伴の招待を受けたとき、酒が出て「なにか踊れ」ということになった。航空隊司令大西少佐は、なにひとつ、踊りを知らない。結局、踊りのうまい将校に教わって、円陣に加わった。ところが手拍子も足拍子もひとつひとつ違う。夫人たちはそれを見て腹を抱えて笑った。
踊りがすんで、座席に戻ってくると、大西は妻に「どうだった?」と訊ねた。
「私、悲しかったわ」
淑恵がいうと、大西の顔色がすっと変った。淑恵は「あ、怒る」と直感した。
「でも、あなたはデクノボーじゃないわ。ちょっと習えば、さっと踊ってゆけるんだから、芸術的素質があるのよ」
「そうか」
大西はすぐ嬉しそうな顔をした。「おまえにも、それがわかるんだから、芸術的素質があるんだね」
大西が本心から喜んだのか、妻がひとを傷つけまいという配慮を見せたのが嬉しかったのか、とにかく「今夜は神楽坂で泊ろうよ」といった。
「おまえの家は、教育者の家庭だから、どうも窮屈でいけない」
「いいわよ」
淑恵は大西を促して省線電車を飯田橋で降りると、ぐるぐる廻り道をして、実家に連れていった。大西は玄関の前に立つと、
「あれ、ここはたしかに見たことのある待合だが、なんといったかな。おまえ、こんな家に来たことがあるのかい」
と、満更でもない顔をした。そのうち、淑恵の声で母が出てきた。大西は「ただいまあ」と大きな声で挨拶すると、妻のいたずらを語って大いに笑った。
「正しい人間になるんだよ」[#「「正しい人間になるんだよ」」はゴシック体]
彼は、ごくあたりまえな庶民生活の感覚しかもっていない。喜怒哀楽の振幅は大きいが、その原因は庶民の次元にある。物質的にも、日本に一本しかないという銘刀を持っていたわけではない。大きな庭石を据えていたわけでもない。家は、将官になるまで、借家住まいである。「君子は辺幅を飾らず」の典型である。「常陸丸」の捜索にいって、日本郵船から感謝の金時計を貰うと、裏蓋についている会社名を削って古物屋に売り、それで宴会をやるような男でもある。
あるとき、アパート住まいをしている大西に、「海軍中佐にもなって、こんなところに住んでいるなんて、みっともないですよ」と忠告するひとがいた。
「じょう談いうなよ」と大西は抗弁した。
「外国ではこのアパート生活が時代の先端をいっているんだ。キミ、海軍将校はつねに時代感覚に生きていなければならん」
借家が多かったのは、ひとつには転勤が激しかったことにもよる。さて、引越しとなると、大西のやることがおもしろい。
畳屋を入れて住んでいた家の畳をすべてとりかえ、襖や障子もぜんぶ張り替えるのである。つまり、家の中をほとんど真新しくして、大西は引越先へ出てゆくのだ。
「立つ鳥、あとを濁さず、というでしょ。それが私の家の家風ですよ」
彼は妻にそういってきかせている。ところが、引越しそのものは手伝わない。「家におりますと、お邪魔でしょうから、ひっこんでおります」といい、さっさと航空隊に出勤してしまうのだ。このあたりは、亭主関白の家に共通の現象である。のちに源田実中佐も「大西さんの教訓だから」といって、引越しを手伝わなくなったという。こんなふうだから家事には一切かまわない。妻がどんな柄の着物を着ていたかも覚えていない。
航空隊から帰ると、庭から入ってきて、縁側に腰かけて庭を眺めながら「おい。腹がへったぞ、早くメシにしてくれ」と叫ぶのである。仕度を待つ間に縁側にどたりと寝ころんで、健康なイビキをかき出すこともしばしばだ。
「海軍さんが縁側で寝るなんておかしいわ」
淑恵がそういうと、大西は「そりゃちがうよ」と教えた。
「海軍さんは、どこでも寝られる、なんでも食べられる、いつでも考えている、これが海軍さんですよ」
この大西が、妻にはじめて羽織を買ってやったことがある。「どうだ、よいものだろう」と得意気で、妻にそれを着せて外出した。ところが波止場で船を見ていると、小雨がぱらつき出した。すると大西は、「おい、羽織が濡れてしまうじゃないか」と強引にぬがせ、懐に押しこんで一目散に駈け出したものである。
以上のように、大西の私生活を垣間見るような物語をあたってゆくと、そこには勇将∞仁将≠フ面影はほとんど見られない。ごく平凡で、飾り気のない、真摯《しんし》な一市井人のイメージがうかびあがる。どんな客にでも、夏なら浴衣を着て兵児帯をぐるぐる巻きにした恰好で応対に出る、一個の日本男子の姿がある。将官になって、自宅に車が迎えにくるようになった。戦時中のことだから、町内では一種のスターになる。子どもたちが、おおぜい集ってくる。毎朝、三十人くらいだという。大西は、その子どもたちの頭を撫でながらひとりひとりに「正しい人間になるんだよ」といった。子どもの中のひとりが、その言葉を聞いて「このおじちゃんはおもしろいことをいう」と、目を輝やかした。
「どうして?」大西が訊ねる。子どもは大西の笑顔につりこまれるように答える。
「たいていの人は偉い人≠ノなるんだよ、というのに、おじちゃんだけは正しい人≠ノなれ、というから」
大西は頷いていった。
「そうさ。正しい人になれば、自然に、偉い人になるんだよ。正しい人は自分でなれるが、偉い人は他人がしてくれるものさ」
列外に出なかった人物[#「列外に出なかった人物」はゴシック体]
大西自身に即していえば、彼は「列外に出なかった人物」という評価がある。「列外に出なかった」は「主流にいた」とはすこし違うが、消極的な意味では「閑職につかなかった」ということである。
中島正少佐によると「列外に出なかったものは、たとえ艦とともに沈んでも満足するものだ」という。これは、そのとおりであろう。大西が特攻を「統率の外道」としながらもこれを敢行できたのは、「いま、死なせるのも大悲」という考えが、日本人の思惟の「列外に出なかった」からである。それを支えていたのが、大西の東洋的諦観である。あるいは、第一航空艦隊司令長官としての役割であり、海軍中将としての責任感である。
大西は、辺幅を飾らない、真摯な一市井人の感覚をもっていたから、特攻に踏み切ることができたのだと思う。真面目だから踏み切ったといえば逆説のようにきこえるかもしれないが、「列外に出ない」人物の真面目さが発揮されたといえるのではないか。
このタイプとは全く逆に、「列外に出る」ことによって、より真摯に生きようとする人物もある。「列内」にいることによって喪《うしな》われる人間的価値を見つめ、「列外にある」ことによってそれを守ろうとするのである。このタイプから見れば「列内人間」は俗物≠ノなるわけだ。
特攻機に搭乗してアメリカの艦船に突入していった若い隊員たちも、また、当時の日本の青年として、「列外」に出ていなかった。筋骨薄弱や病気のゆえをもって丙種に指定されたものが「列外」にあって、軍隊の醜悪さを嘲笑し、特攻の無意味さを語りあっていたのである。そこで、「列外に出なかった」人々が、自分が列内にいることの意味を確かめうる哲学を持っていたかどうか、こういう問題が残るわけである。
大西中将は、その検証の哲学のかわりに東洋的諦観をもっていたのだ。「特攻」の論理は輪廻の思想にリンクされたのである。しかも、その論理は「国体護持」の心情の壁につきあたって、ついに貫徹することができなかった、といってよいであろう。
私は、「特攻」を日本人の特有の精神的状況の所産と解釈してしまうことに疑問をもっている。戦後、この解釈が唯一絶対のものとなったのはいうまでもない。日本人に特有の精神状況だから、「特攻」を非とするものはそれを産んだ皇国教育≠罵倒し、「特攻」を是とするものは日本精神の華と評価するのである。人間の精神行為がそのように、正反対の評価を産んでよいものだろうか。
「特攻」のような行為は、ある種の特有な精神状況の所産ではなく、組織なり集団の中で「列内」にいるものが、みずからの位置の思想的検討を停滞させたときに起るのではないかと思う。あえていえば思想の思想による創造的破壊のエネルギーを欠いたとき、「列内」の思想は心情や宿命観に、根插しの土壌を求めるようになる。
社会主義国でも、おおくの人命を救うために、ひとりの人間が爆薬を抱いて死んだ、という物語が伝えられている。彼は「人民の英雄」であり「人民の華」である。彼自身も、「人民民主主義」の「列内」にいるかぎり、自決を惜しまなかったであろう。個と全体の関係の止揚を、「死」をもって完成するという哲学もありうるであろう。しかし、ひとりの人間が死んだことは事実なのである。彼は「人民民主主義」のために死に、特攻隊員は「美《う》まし山河」「悠久の大義」のために死んだ。後者を皇国教育のあわれな所産≠ニし軍国主義のための犬死≠ニするのは簡単である。しかし、特攻隊員の中には「皇国」「大義」という言葉をつかいながら、じつは「美まし山河」や「母と妹」のために死んでいるものがある。この死に対しては、単純な政治的解釈では救いきれないではないか。
問題は、「列内」の思想が自己検討の歯止めを放棄して、自転運動をはじめることにあると、私は思う。戦後の産業公害や環境破壊も、「技術革新」を先頭に押し立てた「列内」の思想の必然的帰結ではなかったか。その思想にむかって、「人間の回復」を要請しても、自転運動はそれをハネとばしてしまう。ある経営者は「コンピューターに習熟できないひとは、これからアフリカにでも住んでもらう」といったものだ。これは、あきらかにコンピューターという価値(たいした価値ではないのに)が、「列内」の思想となっている証拠である。
戦後の「列内」思想が、公害や環境破壊をもたらし、それにぶつかって反省をはじめたのは結構だが、その反省が「人間尊重」とか「人間性の回復」というような、途方もない大テーマを援用していることに、私は寒気を感じる。
「人間尊重」といい、「人間性の回復」というが、いったい「人間」とはなにか、「人間性」とはなにか、その概念規定もきまっていなければ、哲学的にも捉えられてはいないのである。「人間」はいまだに「この不確かなもの」という認識でしかない。「人間性」は「人間以外の動物には見られない精神行為」でしかない。たかが産業ではないか。芸術とも宗教とも無縁な、石油とガラスとコンクリートと蛋白質と鉱物を扱っているところが、みずからの「列内」思想の破綻に「人間性」などという大それた価値目的をもってくること、そこに戦後日本の思想的悲劇がある。
「人間尊重」は戦後社会の「悠久の大義」なのだ。「産業優先」という思惟構造の論理的決着をつけないで「人間尊重」という「悠久の大義」を持ち出しているにすぎない。
海軍軍令部次長・大西中将が徹底抗戦を叫んだのも、戦争の決着を「国体護持」という心情にヘッジしようとした重臣たちへの抵抗ではなかったか。彼は、そのときから「列外」へ出されてゆくのである……。
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